[優しい雨]
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「あべ、くん。大スキ……だよ」
 その言葉は、息が詰まるような。



 阿部隆也は昇降口で黒い雨傘を開きながら深いため息をついていた。
 連日降り続く雨のため思うように部活動ができず、鬱々とした気分を持て余しているようだ。
 腹いせに足元にいくつかできた小さな水たまりを蹴り上げると、小さく舌打ちして空を仰いだ。そのままぼんやりしていると、落ちてきた大きな雨粒が鼻先にぶつかる。それはますます苛立ちをあおった。
 天気予報では、この雨は週末まで続くらしい。


「阿部君」
 突然背後から掛けられた声にはっとして振り返る。視線の先では、紺色の雨傘を手にした三橋がふわりと柔らかい笑みを浮かべていた。しかしその笑顔はすぐ曇り、三橋の視線は手元に落ちる。どうやら懸命に傘を開こうともがいているようだが、それは頑なに彼を拒絶していた。
 阿部はしばらく眉根を寄せてその様子を眺めていたが、やがて苛立ちをはらんだ低い声で呼びかけた。
「お前なにやってんだよ、さっきから」
「これ、こわれ」
 壊れたと言いたいらしい。
 顔を真っ赤にして傘と格闘していた三橋だったが、やがてひどく落ち込んだ様子でうなだれた。馬鹿馬鹿しくて何も言うまいと無視を決め込んだ阿部は、一歩踏み出したものの結局立ち止まる。
 止まったものの、優しくするのに慣れていない彼では、こういうときどんな言葉を選べばいいのか皆目見当もつかない。しばし俯いてどうしようかと考えこんでいると、すがるような声が彼の名前を呼んだ。声と同時に大きな音を立てて雨粒が傘にぶつかってくる。
 振り向くと三橋は開かない傘の柄を握りしめたまま、さっきと同じ位置に立っていた。行き場のない感情をぶつけるように睨みつけると、視線に気づいた三橋の体が大仰に跳ねた。拒絶されたような気がして、阿部の気分は途端に急降下する。
「なんだよ」
 問いかけた声は怒気をはらんでいた。その苛立ちはもちろん阿部自身に向けられたものだったが、予想通りというべきか、三橋は自分へのものだと思い込んで萎縮してしまう。
 阿部は舌打ちして自分を呪った。大事に思っていることを少しでも伝えることができればと思う反面、どこかで自分自身を崩すのを躊躇していた。笑顔で愛を囁く自分を想像するだけで寒気がするのだ。
「あ、あの、オレ、オレ。傘っ」
 三橋は傘を振り回しながら必死で訴えかけている。紺色の傘は周辺に水滴を撒き散らし、勢い余って阿部の頬を濡らした。
「暴れんな! 怪我したらどうすんだよ」
「ゴ、ゴメンナサイ」
 怒鳴りつけると動きがぴたりと止まる。三橋は一歩後退し、ひどく怯えきった様子で俯いた。阿部は大きく首を横に振ってゆっくり息を吐く。
 そうじゃない、本当に言いたいことはそんなことではない。
 意識を喉元に集中させ、優しい自分の声をイメージする。叩きつける雨のようではなく、柔らかく葉を濡らす霧雨の音を思い描いてそっと傘を傾けた。
「入れよ。送ってやる」
「う、うん」
 優しく降り注いだ声ににわかに表情が明るくなる。そんな三橋の顔を見ていると、強張っていた阿部の口元もいつの間にか笑みを浮かべていた。ようやく笑顔になった阿部を盗み見ると、三橋は喜びが零れないよう口を押さえてこっそり幸せを噛みしめた。


 ぽつぽつと野球の話をしながら歩いていると、やがて三橋の家の前に辿り着いた。阿部は苦笑しながら三橋の頭にそっと手を置く。なるべく優しい自分を意識して、羞恥を追いやろうとしていた。
「風邪ひくなよ」
 それは女房役としての言葉だった。もちろん個人的な感情がまったくないと言えば嘘になるが、西浦高校野球部にとって三橋の存在は大きい。
 そんな言い訳がましいことを胸の内で唱えて背を向ける。必要以上に向かい合っていると、いちいち過剰な反応を見せる三橋を怒鳴りつけてしまいそうだったので、阿部は素っ気なく別れを告げて歩き出した。
「カレー、あるよ!」
 何歩か進んだところで突然三橋がそう叫んだ。大声に驚いて振り返ると、両手を握りしめて自分を見据える双眸に捕まる。
 バッテリーを組んでいるといっても付き合いはまだ浅く、おまけに言葉の足りない三橋の意図を理解するのは難を極めた。しかし自分を引きとめようとしたことだけはなんとなくわかったらしい。
 阿部は無言で三橋の元へ進んでいく。
「腹、減ったな」
 その言葉に弾かれるように急いで鍵を開けると、三橋は猛然と家の中へ入っていく。
 玄関を見る限り靴は三橋が今脱いだもの以外見当たらず、両親は不在のようだ。薄暗い玄関を見回しながら靴を脱ぐと、阿部はのんびりリビングへ向かった。
 キッチンからさっそく慌しい音が聞こえてくる。何気なく覗いてみると、忙しく食事の準備をする三橋が目に入った。楽しそうな表情をもっと近くで見ようと歩み寄ったが、座って待っているよう押し戻される。
 たまには言うことをきいてやろうと、渋々腰を下ろしてテーブルに頬杖をついた。待つことはどちらかといえば苦手な方で、どうにも落ち着かない。時々聞こえてくる小さな悲鳴に何度も立ち上がりかけたが、なんとか堪えて座りなおす。
 暇を持て余してゆっくり目を閉じると、忘れかけていたあの言葉が急に頭に浮かんできた。
『あべ、くん。大スキ……だよ』
 部活が終わってプロテクターをはずしていたときだった。傍らに立っていた三橋にひと言声をかけようとした瞬間、帽子のつばで顔を隠しながら相手は途切れ途切れにそう告げた。何事かと何度も目を瞬かせた阿部だったが、いくらそういった類のことに鈍い彼でも、三橋の放った言葉の意味がわからないほどではない。
 しかし混乱と困惑が先に出た。こういうとき田島ならうまく立ち回るだろうに、そんなどうでもいいことばかりを考え、言葉の代わりに笑みを浮かべるのが精一杯だった。
 以前三星学園と練習試合をしたときに、感極まって好きだと告げたことはあったが、三橋が望むものとそれが違うのは十分理解している。無論答えはとっくに決まっていたが、まだそれをはっきりと告げていない。それでも三橋は一歩ずつ歩み寄ってきた。
 たったひと言を告げることの難しさと戦いながら、用意されたカレーを頬張る。こっそり三橋の様子を窺ってはせわしなく視線を泳がせ、そんな自分に苛立ち始めた。他人を冷静に分析することには慣れているが、自分を見つめるのはあまり得意ではない。野球ならば絶対的な自信を持つことができるが、予測不可能なこの手の事態は分析すればするほど道に迷ってしまう。
 三橋の気持ちを知ったとき、最初は戸惑ったものの、夜眠りに就く頃には歓喜で小躍りしそうだった。
 出会った当初は解り合う必要などないと、どこかあきらめていた。それがいつしか、もがきながら居場所を守ろうとする目の前の少年に何かしてやりたい、理解してやりたいと思い始めていた。
 その感情をなんと呼ぶのか、とっくに気がついている。
 食事を終えると、阿部は徐にバッグの中から白球を取り出す。考え事をするとき握りしめると落ち着くので、いつもこうして持ち歩いている。
 食器を片付けて戻ってきた三橋にそれをかざしてみせると、彼は首を傾げて阿部を見つめた。立ち上がり、ふっと笑みを零して軽くボールを放ると、慌てながら三橋はなんとかそれを両手で受け取った。阿部は無言で投げ返せと手を上げる。小さく頷くと三橋はそれをそっと放った。
 戻ってきた白球を強く握りしめた阿部の動きが止まる。途端に静まり返った部屋の窓を雨粒が叩く。急かすように打ちつける雨音に阿部の動悸が激しくなる。
 たった今、今口にしなければ言葉はすぐに効果をなくしてしまう。甘く切なく胸に響く期限は短い。
 ボールが指先から離れた瞬間、阿部は早口で言葉を放った。
「お前がスキだよ」
 返球する気持ちで感情を投げた。しかしボールは三橋の伸ばした手ではなく、額にぶつかって床に転がる。阿部は慌てて手を伸ばし、よろけた三橋を支えた。その場にへたりこんで口を開いたまま、三橋は呆然と宙を見つめている。
「大丈夫か、オイ」
 揺さぶってもぼんやりしたままの三橋の手を握りしめると、思いのほか冷たくなっていた。阿部はその指先をためらいがちに自分の唇へ引き寄せて触れる。
「あ、阿部君!?」
 視線で返事をすると、涙をためた瞳が不安そうに様子を窺ってくる。むしろ期待と喜びに満ちているだろうと予想していた阿部は、理解しがたい事態に眩暈を覚えた。
 しかしここで引いたらふりだしに戻るだけだ。なにかを変えたくて、三橋の手を握りしめる指先に力をこめる。冷たい指先に唇を押し当てたまま言葉を選んでいると、それまで小刻みに震えていた三橋が再び唇を開いた。
「う、うそ?」
「あ? なにが」
「オ、オレなんか」
「お前、ふざけんなよ。そんなつまんねぇこと言ってっと怒るぞ」
 掴んだ指先はさらに冷たくなっていく。
 たまっていた涙はとうとう溢れだし、三橋は必死でそれを拭っているがきりがない。険しい表情をしてその様子を見ていた阿部だったが、やがて涙に負けて深いため息をついた。
「お前が……三橋が大スキだよ」
 いつか三橋がくれた言葉をそのまま返した。二度と疑われないよう、言い聞かせるようにゆっくりと教えてやる。阿部は目を細めて微笑すると、ひとつ息を吐いてから親指で丁寧に涙を拭ってやった。それでも雫は次から次に溢れて頬を濡らす。それは阿部の心を何度も叩いた。
 とにかく自分を信じて欲しくて、握りしめた手を強く引き寄せる。三橋の額が阿部の肩口に触れた。
「お前が投げたものは全部捕ってやるから」
 ところどころ跳ねている癖毛に頬を寄せて、どうにか今の感情を伝えようともがく。
 抱きしめてやるつもりで、握りしめていた手を解こうとしたが、三橋は拒むように強く握り返してきた。
 うまく相手に伝えられるような言葉を知らない彼らにとって、手の温度が心を知る一番の術である。
 いつの間にか冷え切っていた手は熱を持ち、触れ合っている場所は熱くなっていた。
 阿部はなだめるようにゆっくりと三橋の背を撫でる。沈黙のままでは落ち着かず、互いに次の言葉を考えたが、うるさい鼓動が邪魔して口を開きかけては閉じるの繰り返しだった。激しい鼓動と共鳴するように吹き荒れだした風が、窓ガラスを揺さぶっている。隙間風にくすぐられたのか、静寂を三橋の盛大なくしゃみが破った。
「大丈夫か?」
 すかさず阿部が尋ねる。三橋は鼻をこすりながら大袈裟に何度も頷いた。
「今日はさっさと風呂入って寝ろよ」
 そう言うと阿部は三橋の頭をくしゃりと撫でて立ち上がる。急に解かれた腕に寂しそうな表情を浮かべた三橋に気づき、阿部は苦笑した。
「なに?」
 わざとらしくそう尋ねられ、三橋はあからさまに不満な表情をしてみせた。さっきの言葉をもう一度聞きたくて、ねだるように視線をぶつけてみたがはぐらかされてしまう。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
 帰り支度を済ませて玄関へ向かう阿部の背中をじっと見つめたが、期待通りの結果は望めそうにない。自分に自信のない三橋にとって、確かめるのは重要なことだった。本当か嘘か、いつもその間で不安に揺れる。
 それでもマウンドと同じくらい譲れないものを見つけた。
 向けられたままの背中をすがるように見つめていると、不意に阿部が振り返って彼の鼻先を指で押した。
「寝る前にメールしろ、いいか?」
「うん!」
「それから、明日しっかり朝メシ食ってこいよ」
 力強く頷く姿を確認すると、阿部は満足そうに口角を上げた。
 もっと阿部の笑顔が見たい、三橋はふとそう思い立って小さく頷く。するといつか思いを告げたときの阿部の笑顔が浮かんできた。投げたものは全部捕ってもらえる、そう信じて彼は破顔する。
「阿部君、大スキ」
 はにかみながらそう告げる三橋。受け取ってもらえると信じきっている。
 もう一方は唐突な愛の囁きに面食らって唖然としていたが、返事を期待して落ち着かない様子に気づいて観念した。
「……オレも……です」
 恥ずかしさに負けて妙にかしこまった口調になってしまう。
 阿部は別れの挨拶もせずに慌てて外へ飛び出すと、口を手で覆ってドアにもたれかかった。
「やっべぇ」
 思い返すと羞恥がせりあがってくる。なんとかして平常心を取り戻そうと、傘を差して急いで三橋家から離れた。
 落ち着こうとすればするほど、三橋の照れくさそうな声が邪魔をする。
 宙にかざした手に残った温かさを確かめると、冷めてしまわないようポケットに手を入れた。
I N D E X_