ただひとつ守りたいものは…
また明日と言うたびに、鈍い音を立てて胸の奥のなにかがひとつずつ潰されていく気がする。
帰宅すると、荷物を床に放り投げてベッドに倒れこんだ。
部屋の明かりはつけていないが、窓から差し込む外の光が部屋の半分辺りまで照らしていて、それほど闇を感じない。枕に顔を埋めていると、わずかに開いた扉の隙間から母親が「ご飯は?」と尋ねる声がした。すると思い出したように体が空腹を訴える。たとえどんなに絶望的な気分になっていたとしても、欲求には勝てないと観念し、泉は重たい体を起こした。早くひとりになりたくて急いで食事を取ると、再び自室に戻ってベッドに寝転がった。
ひとりになったらなったで浮かんでくるのは苛立ちばかりで、いっそ眠って何も考えまいと思えば思うほど目は冴える。それもこれも、部室で偶然目撃してしまった光景のせいだった。
担任に呼び出されていたため、部活動の開始時刻ぎりぎりに部室へやってきた泉は、部室の扉を半分開けたところで動きを止めた。
室内のベンチに腰掛けていた田島の腕は、側で立ち尽くす三橋の腰をぎゅっと抱きしめている。三橋は硬直して目を固く閉じ、肩をすくめて何か言っているようだったが、声が小さすぎて聞き取れなかった。田島は確か「好きだ」というようなことを言っていた気がする。やや記憶が曖昧だった。
泉は音を立てないようドアを閉めると、そこにもたれてずるずる滑り落ちる。
「マジかよ……」
最初は驚きだけが支配していたが、そのうち徐々に違う感情が込み上げ始める。
「あれ、なんだこれ」
驚きのあとにやってきたのは痛みだった。よくわからない鈍い痛みがゆっくりと胸の内に拡がり、気がつかなかったふりをするのを許さないとばかりに、強く内側から叩きつけてくる。
ひとまず移動しなければと思うが体が思うように動かず、中途半端に浮かせた腰を開かれたドアに押された。
情けなく地面に転がり、気分はますます落ちていく。
「こんなとこでナニしてんだ?」
田島の軽快な声が上から降ってきた。泉は首を捻って倒れたまま相手を睨みつける。
「寝てるように見えるか?」
「そんなとこで寝たら風邪ひくぞ」
「……寝てねぇよ」
「まーいいや。早く行かねーと始まる」
そう言って田島は、心配そうに泉を見ていた三橋の腕を引く。一瞬ぶつかった頼りない視線はあっけなくはずされ、遠くに行ってしまった。
そのまま地面に横たわっていても仕方ないと思い、ゆっくり起き上がって砂をはらうと扉を開けてため息まじりに室内へ足を踏み入れた。さっきまで二人がいた場所へ目を向けるとやるせない気持ちになってくる。
「つーか、ありえねーだろ」
やるせない気持ちにさせるのは、さっき見た光景ではない。泉自身が今感じているこの感情そのものだった。
これまで三橋に特別な感情を抱いていたという自覚はまったくなく、クラスメートであり同じ部活の部員だという、あくまでも友人としてのものだったはずなのだ。
しかし現在彼の胸を占めているのは抑えきれない激しい動揺である。目を背けようとしても突き立ててくる嫉妬と苛立ちは、しつこいくらいにその存在を示してきた。
いまさら形になった淡い感情は、姿を現した瞬間に終わりを宣告されてしまった。
届かないと知ったというのに、その感情はうっとうしいほど膨らんでいく。泉は嫌というほどそれを思い知らされた。
その日は珍しく田島が学校を休んでいた。病気という言葉を連想するのが難しいほどの元気な少年だが、昨晩から熱が下がらないらしい。
三橋からその話を聞いたとき一瞬苦い気分になったが、それをおくびにも出さずに苦笑した。三橋が詳細を知っている理由など、いまさら尋ねるまでもない。
いつも賑やかな田島がいないせいか、昼食時の教室内はいやに静かに感じられた。三橋の視線が時折何か言いたそうに泉の顔で止まる。それを何度かやり過ごしていたが、とうとう折れて口を開いた。
「ナニ?」
三橋は問いかけに一瞬固まった。誰に対してもこのような態度を示すのだが、たったひとりにだけは心を許した笑顔を向けるのを思い出して小さく舌打ちする。
「あ、あのっ、田島く、んの」
泉は黙って頬杖をついている。右手に握った箸は卵焼きに触れる寸前で止まっていた。表面を少し焦がした甘い卵焼きは泉の大好物である。
三橋は懸命に両手を振って言葉を伝えようとしていた。その表情がひどく愛おしく感じられる。うっかり抱いてしまった感情に焦って卵焼きに箸を突き刺した。
早く火種を揉み消そうとこれまで幾度となく努力はしたが、結局いつも失敗に終わる。それならばいっそぶつけて楽になってしまおうかと考えたこともあったが、三橋が困惑した顔を思い浮かべると踏み止まった。困惑した顔はやがて泣き顔に変わり、泉を苛む。
いつかゆっくりと思いが風化していくのを待つしか、思いつく術がない。
相手の一番にはなれないが、三橋が彼の一番であることは今のところ変わりそうになかった。一番だから無茶はできない。一番だから守りたいものがいくつもあった。
素っ気なさを装うことで自分自身の気持ちと折り合いをつけ、理性の鎧を着こんで対峙する。
「見舞い行くか」
「うんっ!」
意地悪くとぼけることもできたが、あえてそうはしなかった。それが正解だったと満面の笑みに教えられる。
ひとりで行けばいいのに、一瞬心の中で悪態をついてしまった自分を諌めると、ちょうど側を通った浜田の袖を引っ張った。浜田は驚いて振り返る。
「放課後、田島んとこ行くぞ」
「え? オレ?」
「応援団だろ。応援しろ」
「は? 意味わかんねぇ」
テスト一週間前は部活動がないため、放課後は十分に時間がある。本来ならばテスト勉強をしなければならないところだが、無論そんな気持ちになるわけがない。テキストを開いて問題を一行読んだ時点でやる気が失せるのが関の山だ。
浜田を巻き込んだのはひとりになりたくないからだった。つい今しがた「ひとりで行けばいいのに」と思った泉だったが、結局自分も似たようなものだと微苦笑する。
よく大事なもののために人は強くなると言うが、それは嘘だと泉は毒づいた。
田島の家の呼び鈴を押すと、中から小柄な女性が出てきた。笑うと細くなる目がよく似た親子だ。彼女は愚痴を零しながら息子のクラスメート達を中へ通した。
「あの子ほんっとじっとしてなくって。あんなに熱が高いのに学校行くって言い張るから、仏壇のある部屋にす巻きにして寝かせてるんだけどね」
冗談かと思って苦笑していた一同だったが、開けられた襖の向こうにす巻きにされた少年を見つけて絶句する。田島は布団を体に巻きつけ、三箇所ビニール紐で縛られるというありえない格好で眠っていた。
三人は一斉に田島の母を見たが、彼女は微笑みながら「お菓子と飲み物持ってくるわね」と言い置いて去っていく。三人は言葉をなくして互いの顔を見た。三橋の顔は完全に青ざめている。
「過激……だな」
浜田はなんとか声を絞り出してそう言った。泉も引きつった顔で頷く。あまりにも不憫だったので紐を解こうということになり、ひとりひとつずつ紐を解いた。
田島はまだ熱が高いらしく、肩を上下させながら浅い呼吸を繰り返している。三橋は急に強張っていた表情を解くと、枕元に正座してそっと熱い額に冷たい手のひらを乗せた。田島は息苦しさで歪んだ表情を和らげる。その様子は嫌でも視界いっぱいに飛び込んできて、泉の心を激しく揺さぶった。
そこに言葉はなかったが、二人がどれほど互いを必要としているのかを見せつけられたような気分になる。
わかっている、わかっているはずなのだ。いつかこの胸に渦巻く忌々しさも消えてなくなるはずなのだ。そんなことはわかっているのに、いつかの未来よりも今の苦しさが体中を支配する。一秒前ですら過去だというのに、この瞬間の痛みに押し潰されそうになった。平静を装い顔を背けると、浜田の視線にぶつかる。
「どうしたの」
優しい声に思わず舌打ちしてしまう。
「なんでもねー」
浜田は仏頂面の泉を一瞥すると、三橋の隣りに移動して田島を覗き込んだ。
「とりあえず念でも送っとけばいい?」
彼なりの応援のつもりらしい。浜田は両手を田島の喉元に伸ばすと、ぶつぶつと小声で呪文のように何かを呟いていた。
その姿を見ているとひとり悶々としているのが馬鹿らしくなってくる。泉は布団を挟んで二人の正面に腰を下ろすと、口端をつりあげて表情穏やかな田島を眺めた。さっきまでの息苦しさが嘘のように、静かに寝息を立てている様子が少しばかり恨めしく思えた。
「鬼の霍乱ってやつだな」
浜田の言葉に三橋が首を傾げている。そこへ田島の母がトレイを抱えて戻ってきた。
「お見舞いに来てくれるなんて思わなかったから、こんなのしかないけど」
トレイには湯飲みが三つと、黄粉のかかった団子が乗せられた皿が置かれていた。
「この子まだ寝てるの? ごめんなさいね、起こしちゃっていいのよ」
さっきまで息子をす巻きにしていた張本人が言う台詞ではない。三人は同様にそう思ったが、愛想笑いを浮かべて礼を言うと、母親はゆっくりしていくようのんびりとした口調で告げて出て行った。彼らは同時にため息をつく。
「あんまり長居したら悪いよな」
泉はぽつりと呟いた。少なくとも自分と浜田は、と内心で付け足す。
田島が目を覚ましたときに居て欲しいのは、他でもない三橋だけのはずだ。
せっかくの気遣いを無駄にするのは申し訳ないのでさっそく湯飲みに手を伸ばし、ひと口啜ってからつまようじの刺してある団子をつまむ。
「悪い、オレちょっと便所」
浜田は徐に立ち上がると、襖を開けて出て行った。泉は一瞬うろたえたが、あくまでも平静を装うことに集中する。余計なことを考えてしまったせいか、黄粉が喉に張りついた。お茶を流し込んでいると自分をじっと見つめる視線に気づかされる。
三橋はいつもこうだ。泉の気持ちには少しも気がつかないくせに、自分の気持ちには気づいてもらおうとする。それを受け流せたためしなどない。
「明日には元気になるって。大丈夫、心配すんな」
気がついて声をかけると、三橋はいつも嬉しそうに破顔する。その顔をもっと近くで見たくて、泉は三橋の隣りへ移動した。
「そ、かな」
「心配ならついててやれば? 目が覚めたときにお前が居たら、田島喜ぶんじゃねぇの」
三橋の表情が途端に曇る。理由はわからなかったが、泉は深いため息をついてからそっと三橋の頭に手を置いた。その手を乱暴に動かして髪を撫で回す。
「絶対そうだって。マジで」
今度はどうしようもなく嬉しそうに口元を緩ませた。三橋の照れくさそうな視線が田島に注がれている。
この感情は時々理解不能だ、と泉は思う。ひとりきりでいると苛立ちばかりが募るというのに、こうして二人で居ると相手が笑顔ならばそれでいいかと、それまでのすべてを許してしまう。本当にいつかこの気持ちが消える日が来るのだろうかと、不安を禁じえなかった。
「そーいうことで。オレ達もう帰るから。田島見張っといてな」
まだ浜田は戻っていなかったが、彼の鞄も一緒に手にとって立ち上がる。三橋の目がすがるように見上げてきたが、泉はここ一番の笑みを浮かべた。
「大丈夫だって。お前ならできるよ」
むしろ三橋にしかできない、と心の中で続けた。
三橋の顔が綻び、深く頷く様子に安堵する。それでいい、そうでなくてはいけない。そう自分に言い聞かせる。いつまでも届かない思いに執着していたって仕方がないのだ。
一歩を踏み出すつもりで言葉を前に押し出した。三橋に別れを告げて襖を開けると、続きの部屋の端に浜田が立っていた。泉は手にしていた鞄を放り投げると、相手は難なくそれをキャッチする。
「オレ、団子食ってないんですけど」
「お前、そんなに団子好きだったっけ」
「好きだよ、大好きだよ」
「うそくせぇ」
浜田はひどくがっかりした表情を見せたが、その足は玄関に向かっている。
「帰りになんかおごってやるから」
「マジで? 珍しい」
さすがに散々振り回しておいてこのまま解散というのは申し訳ない気がする。普段の彼ならばさほど気にしないところだったが、今は少々感傷的になっているらしい。
このところ肌寒くなってきた風をきりながら急いで自転車で帰路に着き、自宅近くのコンビニエンスストアの前で止まった。鞄から泉が財布を取り出すと、浜田はそれを制して待っているよう告げ、店内へ走っていく。
「なんだ、アイツ」
まだ息が白くなるほど寒くはなかったが、じっとしていると風が鼻先を冷たくする。泉は両手で頬を挟んで浜田が出てくるのを待った。駐車場のブロックに腰掛けて通りを走る車をぼんやり眺め、少しだけ二人きりにしてきたことを後悔する。あのときはそれが一番いいことのように思えたが、やっぱり胸はじくじくと疼く。
格好をつけても素っ気なさを装っても内側は正直で、ただ苦笑するしかない。それでも近くに居たい。一番にはなれなくても、一番近くで見守ることはできるかもしれない。
「ほれ」
膝に埋めていた顔の前に湯気の立った肉まんを差し出される。ゆっくり顔を上げると、すでにそれにかぶりついている浜田の笑顔が見えた。
「買い占めてきたから、たくさんお食べ」
浜田は指先に引っ掛けたビニール袋を揺らしてみせた。
「どーも」
素っ気ない返事を返すと、泉は肉まんを半分に割って息を吹きかけた。
「またえらくかわいらしい食べ方だな」
「うるせぇ」
浜田は立ったままもうすぐ一つ目を平らげようとしている。負けじと泉も大口を開けた。
「用心ばっかりしてるから、出遅れるんだよ」
「は?」
「のんびり食ってるとなくなるよ」
浜田はそう言うと、缶コーヒーだけ取りだして袋を泉に差し出した。
「あと全部食っていいから」
「気持ちわりぃ」
「え? 傷心の弟を気遣う優しい兄貴って設定なんだけど」
「てめーの弟になった覚えなんかねぇよ。つーか待て、傷心ってなんだ」
「なーにがお前ならできる≠セっつーの。聞いてるこっちが泣きたくなるわ」
「てめっ」
続きは言葉にならなかった。羞恥で歪んだ表情はすべてを肯定しているも同じだったが、焦った状態で平静を装うのは到底無理な話である。
「好きなら好きって言えばいいのにさ」
軽い言葉に目の前が暗くなる。それはどれほど自身でも思ったことか。
「うるせー、浜田のくせに」
わかったような口ぶりが怒りを煽る。けれどそれをぶつけるのをためらった。見上げた表情はどこか自嘲的で、缶を握りしめる手が心なしか小さく震えているように見えたのだ。目を瞬かせていると浜田が微かに笑む。
「なーんて言えたら苦労はねぇよな」
「誰にも言うなよ」
「はいはい。言いませんよ」
「つーか全部忘れろ」
「わーかったって。さっさと食えって、寒いから」
日が落ちて風はさらに冷たさを増している。
泉は頬張った肉まんを缶コーヒーで流し込んで立ち上がった。見上げた空は少しずつ夜の気配を運んできており、一日の終わりへ向けて流れている。
今頃田島は目を覚ましただろうか、そのとき三橋が浮かべるであろう幸福な笑みを思い浮かべると、泉の胸はぎゅっと切なく締めつけられた。