say your name
「お前に会わせたい奴がいる」
そう言われた瞬間、阿部隆也は眉間に皺を寄せて榛名元希の隣に佇む少年に視線をやった。
言葉だけ聞くとまるで恋人でも紹介されているようだったが、それは他でもない自分自身だ。認めないと喚くのも面倒になってきたので、この際肩書きにはこだわらないことにした。
「おにぎり、そんなにたくさんないと思いますけど」
「お前はどうしてそう、いつもいつもかわいくない返事ばっか返すかな。普通なら、その人誰ですか、まさか浮気、とかいろいろ慌てるもんだろ」
「秋丸さんですよね」
「え? なんで知ってんだよ」
榛名は狼狽して秋丸と阿部を交互に見た。
彼の予定では阿部が動揺を見せるはずだったが、当人は涼しい顔で秋丸と握手を交わしている。
「どういうことだ」
「どうせよからぬことを考えてるんだろうから言っときますけど。普通試合で当たる可能性があるとこのデータは頭に入れとくもんでしょう」
「なるほど、そういうことか。それならいい。むしろお前らしいな」
すっかり安心した様子の榛名を一瞥すると、深いため息をついた。大仰な態度にいちいち突っ込むのも億劫である。
背後でこそこそと彼らの様子を窺っている西浦高校の野球部員達は、これからなにか事件が起こるのではないかと期待に満ちた眼差しを注いでいる。
その気配を背に感じ、阿部は榛名を睨み据えた。
「それで? もう用は終わったと思うんですけど」
「このかわいくないのが阿部隆也、オレの嫁」
さりげなく肩に触れようとした榛名の手をかわし、引きつった笑みを浮かべる。
「いやー、タカヤって名前はよく榛名から聞いてたんですけど。会えて嬉しいなぁ」
「……今さらりと聞き捨てならない台詞をスルーしましたね」
「え? なに?」
秋丸は首を傾げ、柔らかい微笑を浮かべて阿部を見つめた。
のんびりとしたテンポに乱され、それ以上突っ込めずに口をつぐむ。
「でもびっくりしましたよ。話を聞く限り、君が榛名を好きだなんて絶対ないと思ってたから。でも嫌いから始まる恋愛ってドラマでもよくありますよね。いいねぇ、オレも恋人欲しいなぁ」
「すいません、いろいろと疑問点が……」
「と、とりあえず約束通りタカヤ紹介したから、お前はさっさと帰れ」
阿部の表情があからさまに変化したのを感知し、榛名は焦って秋丸を追い返そうとする。
その様子はまさに阿部の疑問の答えであり、またしても脚色して伝えられた物語を修正しようと身を乗り出した。
「詳しくその話聞かせてもらえますか? この人がなに言ったか」
「えっと、君が榛名に」
「いいからさっさと帰れ、メガネ!」
「ちょっと、話まだ途中」
背中を無理矢理押され、名残惜しそうに肩越しに振り返るメガネを、呆然と見送る。
言葉の続きは容易に想像できたが、それを自ら否定できなかったことが悔やまれる。
それにしても……阿部は頭を掻きながら舌打ちした。自称恋人はとんでもないことばかりしてくれるものだ。
いつ、誰が、お前を好きだなんて血迷ったことを吐いた、と内心で突っ込みを入れる。
「お前ら、遊んでないで練習しろ!」
振り返らず背後の連中に怒鳴りつける。彼らは慌てて散らばり、各々練習を再開した。
しかし西広だけは悠々と隣に並び、榛名に引きずられていく秋丸を眺めながら呟く。
「やきもち、焼いて欲しかったのかもね」
「はい?」
「それかあの人に阿部を自慢したかったか」
「……真面目に分析するほどの野郎じゃねぇぞ、あいつは」
西広は人の良さそうな笑みを浮かべて阿部の肩を軽く叩くと、無言で練習へ戻っていく。
ひとり残された阿部は、複雑な気分でしばらくそこに立ちつくしていた。
「ストーカー発見」
「ストーカーじゃねぇ。付き合ってんだから」
「特定の相手に対して、待ち伏せたり執拗に追いかけ回したりする奴のことを言うらしいですよ」
「とにかく。家入るぞ」
このところ、帰宅すると自宅前で榛名が待ち伏せているのは当たり前の光景になっており、家族もさほど疑問に思わず食事を用意していた。
自分の生活に着々と侵略してくる男に不快感を覚えたが、抗議したところで素直に聞き入れる相手ではない。
こうやってずるずると許しているのが状況を悪化させる原因だとわかってはいるのだが、強く拒絶できない彼がいた。
「つーかさ、たまにはお前がうちに来いよ」
「用ないんで」
「お前マジでむかつく。たまにはオレの前でしかめっ面以外の顔してみろっつーの」
すっかりベッドの上が指定席になった榛名は、そこにあぐらをかいて偉そうに言い放つ。
相変わらずの物言いにもようやく慣れてきたらしく、阿部は鼻で笑いながら椅子に腰掛けた。
「むかつくなら、よそにいった方がいいんじゃないっすか」
「お前……」
さっきまでとは打って変わって、榛名の表情が凶悪なものに変化する。
彼は立ち上がり、乱暴に阿部の右手を掴んだ。
抵抗を見せても相手の本気にかなわず、ベッドの上に引き倒された。
伸しかかってくる榛名を押しのけようともがいたが、腰から引き抜いたベルトで両腕を縛められる。
「ちょ、冗談は」
「冗談でこんなことするか」
洒落にならない、阿部は唾を飲み込んで凶暴な眸を窺った。
榛名は押し倒した阿部にまたがり、無表情で見下ろしている。
今はどんな言葉も意味を持たない気がして、じっと相手の次の一手を待った。
「オレがどれだけお前のこと好きか、考えたことないだろ」
もともとむちゃくちゃな相手だということは承知していたが、ここまでくると呆れて物も言えない。
阿部は嘆息し、顔をそむけた。
「そんなの、知るわけねぇだろ」
「なんで毎日会いに来るか、わかってんのか?」
「だから知らねーよ」
「明日の約束するために……決まってんだろうが」
ゆっくり顔を戻すと、自分で言った言葉に赤面している幼い表情が映った。
「明日も側に居るって言わせるために、このオレが毎日来てやってんのに。それをストーカー呼ばわりしやがって」
実に自分勝手な言い分だったが、言った本人の姿は真剣そのものである。
以前は不快でしかなかったその様子が、最近では少し違って見えるのは、なぜなのか。
榛名がストレートな想いを口にするたび、胸が締めつけられるような感覚に襲われる。
嫌いだったはずなのに、毎日明日側に居る覚悟を決めてしまう。
流されているだけだと、思いたい。
「明日は、早く終わるんで……」
「終わるから、なんだよ」
そのあとが続かない。本人ですらそのあとなにを言おうとしているのかわからなかった。
阿部は困惑して自分にまたがる男を見つめる。
「ちょっとの間、目閉じてろ」
「は? なんで」
「いいから。早く」
そう言って急かされ、阿部は渋々目を閉じた。いちいち反抗しても無駄な時間が過ぎるだけだと、最近ようやく学んだらしい。
ただ流されているだけで自分の意思ではないと主張するのが、彼の最後の意地だった。
目を閉じておとなしくしていると、鼻先に息がかかる。何事かと目を開けるのとほぼ同時に、冷たい唇が押し当てられた。
阿部は目を見開いてとっさに相手の額を叩く。
「ナニしてんだ、テメェ!」
「だって、お前が誘うから」
「誘ってねぇ! どうやったらそういうアホな結論にいきつくんだよ」
「斜め四十五度くらいでこっち見てるときのお前……なんかエロくて」
「は!? 意味わかんね。もう死んでくれ」
唇を手の甲で拭いながら睨みつけたが、榛名は一向に離れる気配を見せない。
縛められた腕が痺れだし、いよいよ我慢の限界というところで、不意に部屋の扉が開かれた。
「夜食のおにぎり持ってきた」
弟の入室に二人の動きが一瞬止まる。
阿部は自分の置かれている状況を改めて分析し、悲鳴を上げた。
「ちがっ、これは全然そういうんじゃねぇからな」
弟は目を瞬かせながらベッドの上の惨劇を見つめている。その視線は兄の手首で止まり、そのあとゆっくりと榛名へ向けられた。
榛名は片手を上げ、軽快な口調で立ちつくす少年へ声をかける。
「おー。ごくろう、弟」
阿部はベルトで縛られた両手を懸命に振って榛名を追い払おうとしたが、軽くかわされるだけに終わる。必死になって暴れれば暴れるほどその姿は滑稽に映るのだが、本人のみそのことに気がついていない。
しばしその様子を眺めていた弟は徐に口を開いた。
「だ、誰にも言わないから」
「ま、ま……て」
弟はトレイを机に置くと、恐ろしいほど爽やかに笑んで出て行った。
親指を立てそうな勢いの彼を引き止めることはかなわず、絶望的な気分で縛られた腕を胸の上に下ろす。
「最悪だ」
それもこれも、自分にまたがっている大馬鹿野郎のせいだ。
そう結論づけ、阿部は怒りを含んだ鋭い双眸を向ける。
「それ、その目。やっぱエロい」
「テメェなんか、嫌いだ」
弟に情けない姿を見られたのが余程ショックだったらしい、沈んだ声でそう呟く。縛られたままの両手で顔を覆うと、悲痛なため息を漏らした。
すると伸しかかっていた身体が離れていく。両腕を縛っていたベルトもはずされ、途端に自由が訪れた。
さっきまであれほどしつこく迫っていた気配が遠のくと、阿部は訝しげな視線を向ける。
榛名はベッドの縁に腰掛け、肩を落としてうなだれていた。
これは新しい作戦だろうか、警戒しながら小声で呼びかけてみる。
万が一襲いかかってきたときのために、攻撃の構えは忘れずに。
「今度は、なに企んでるんだよ」
あくまでも強気な姿勢で問いかけた。
榛名はうなだれたままぼそぼそと答える。
「……うから」
「え?」
「お前が嫌いとか言うから」
「拗ねてるんですか?」
「しかもいまだに名前で呼んでくれないし。昔は呼んでたくせに」
「そうでしたっけ?」
「お前が嫌がるならこういうこともうしない。でもオレは我慢強くないからな!」
引くと見せかけて押すのがなんとも榛名らしかった。
振り回されてばかりで、結局最後は呆れてこう呟くしかないのだ。
「わけわかんねぇ」
それから三日、身勝手な男は姿を現さなかった。
せいせいしたと胸を張って言いたいところだが、仲間達の無邪気な言動に邪魔される。
「もしかして振られた?」
揶揄する泉を睨みつけたが、満面の笑みでかわされた。
次々に榛名の不在を心配する声が上がり、苛立ちが募る。それほど彼がこの場に居るのが当たり前になっているのだと思い知らされ、ますます阿部は依怙地になった。
「うるさいのが居なくて練習しやすくなっただろ」
「あの人結構面白かったけどな」
水谷の主張は黙殺される。
「あいつは元々他校の生徒なんだから、ここに居る方がおかしいんだよ」
存在を無視しようとしても、誰よりも不在を気にかけているのは阿部自身だった。
しかし嫌がることをもうしない、と宣言した榛名を思い出して小さく頷く。
むちゃくちゃで自分勝手な人間だが、少しくらいは他人を思いやる気持ちを持っているに違いない。阿部は無理矢理自分を納得させた。
そうでなければ、あの男が目の前に現れないはずがない。
明日の約束を取りつけにくるのが日課の自称恋人は、もう二日も姿を見せていない。
今なら離れられるかもしれない、そう一瞬思ったが、栄口が放った言葉に揺さぶられた。
「まさか……怪我とかじゃないよね」
普段身体に細心の注意を払っているとはいえ、不慮の事故に見舞われないとは限らない。
不意によぎった嫌な予感に冷汗が滲む。
途端に黙りこんだ彼に花井のひと言がとどめを刺した。
「連絡してこないくらいだから、相当ひどかったりして」
花井に他意はなかったが、その言葉は胸に深く突き刺さった。
先日自分が口にした「死んでくれ」という台詞が耳の奥でこだまする。
いまさらだとわかっているが、あれは本心ではなかったと胸の内で呟いた。
「阿部君居ますか!?」
重苦しい雰囲気に切羽詰った声が割り込む。
一同の視線は出入り口のフェンスへ向かい、慌てて駆けて来る見覚えのある姿に息を呑んだ。
ただごとではない空気をまとった少年は、先日榛名と一緒にここを訪れた秋丸恭平だった。彼はずれた眼鏡に気がつかないほど必死の形相で阿部の名前を叫んでいる。
「阿部君は……居た。大変なんだよ!」
秋丸は阿部の姿を見つけるなり両手を伸ばして肩を掴んだ。激しく肩を揺さぶられ、阿部は目を丸くする。
尋常ではないほどうろたえている様子に顔が引きつる。もしや……悪い予感が胸によぎった。
「榛名が大変なんだ! すぐ来て」
グラウンドに響き渡る悲痛な叫び声に、全員が顔を見合わせる。誰もが悪い予感に押し潰されそうになっていた。
「ど、どんな風に大変なんですか?」
「とにかく大変なんだよ」
要領を得ない返答にもどかしさを覚え、阿部は舌打ちして背後に佇む花井を振り返った。
「行って来いよ。モモカンにはオレから言っとくから」
礼を言うのもそこそこに、阿部は急いでグラウンドから飛び出した。そのあとを秋丸が追いかけていく。
猛スピードで着替えを済ませて駐輪場へ向かい、秋丸に導かれるまま榛名の自宅へ向かった。
「家ってことは、事故に遭ったわけじゃないんすか」
信号待ちの間、少しだけ冷静さを取り戻した阿部が問いかけた。
秋丸は問いかけに目を瞬かせる。
「事故? オレそんなこと言ったっけ」
「だって大変だって……」
「大変だよ! あの榛名が熱出して寝込んでるんだから」
「はい?」
「あいつのクラスの奴に頼まれてプリント持ってったら、高熱でうなされてて。家族は出かけて誰も居ないし、ひとりぼっちで苦しそうにしてたんだよ!」
「それで……わざわざ呼びに?」
「これから部活に戻らないといけないんで」
阿部はがっくりうなだれる。予想していた最悪の事態ではなかったが、素直に喜べない。いろいろと突っ込みたい衝動を抑え、温い笑みを浮かべた。
「あ、そうだ。ありがとうございました」
唐突に告げられた感謝の言葉に面食らう。
どこまでもマイペースな眼鏡は、そんな相手の反応などお構いなしに続けた。
「榛名がこうして野球を続けてるのは、君のおかげだから」
「オレの?」
「あいつはなんにも言わないけど、話聞いてればわかるんだ。毎日タカヤがどうしたこうしたって、そればっかりで。一時は荒んでてどうしようかと思ってたけど、君のおかげでゆっくり元のあいつに戻っていって、今の榛名元希があるんじゃないかな」
阿部は答えに窮して、なかなか変わらない信号を見つめている。
榛名の抱えている事情について少しは知っていたが、自分が彼になにかを与えたとは少しも思えない。
バッテリーを組んでいたのは捕球できるのが自分だけだったからだ。それ以上でもそれ以下でもなかったはずである。
榛名にとって今歩いている道はただの過程でしかなかった……はずなのだ。
あの頃はそれが悔しくて、ひたすら自分の存在を認めて欲しいとがむしゃらに突っ走っていた。
それでも最後まで相容れずバッテリーを解消したというのに。
阿部は複雑な気持ちで秋丸を見つめた。
「あいつの家、信号渡って二つ目の角を曲がった道真っ直ぐ行ったマンションだから。あと、これ」
信号が変わった瞬間、秋丸は制服のポケットから鈴のついた鍵を取り出した。条件反射で手を差し出すと、彼は満面の笑みを浮かべてそこへ鍵を落とす。
「この鍵、ちょうど出かけるところだったおばさんに預かったんだけど。帰る時は郵便受けに入れといて」
「え? 一緒に行かないんですか」
「もう時間やばいんで。それじゃあ、あとはよろしくお願いします」
秋丸は深々と頭を下げると、慌てて来た道を引き返して行く。
阿部は出かかった言葉を持て余してしばしその後ろ姿を見送った。その姿が見えなくなると、舌打ちして手のひらの鍵を睨みつける。
そうしたところでいまさらどうにもならないとわかっていても、皮肉を言わずにはいられない。
「なんでオレが」
もしそんな問いかけを眼鏡にしたならば、目を丸くするような突拍子もない答えが返ってくるに違いない。
例えば、こんな。
『だって付き合ってるんでしょう?』
返事を予想しただけだというのに寒気が襲ってくる。
阿部はかぶりを振ってペダルを強く踏みしめた。
余計なことを考えていても仕方がない。こうなればさっさとクエストをクリアしなければ。
部屋の前に辿り着いて鍵を差し込んだ瞬間、ほんの一瞬だが躊躇した。
プライドの高い榛名の弱った姿を見てもいいのだろうか。
連絡ひとつ寄越さなかったのは、熱にうなされている自分を見られたくなかったからではないか。
榛名の性格を考慮すれば十分にありうることだった。
しかしここまで来てしまった以上引き下がるのは癪である。こうなればいっそ弱った相手をからかって遊んでやろうと決め、鍵を回す。
いつも散々迷惑をかけられているのだ、それくらい許されるはずだ。
阿部は胸の内であれこれとここへ来た理由を無理矢理作った。あくまでも自分の意思ではない、そこをメインに。
「お邪魔します」
小声でそう言うと、脱いだ靴を揃えて奥へ進んで行く。部屋は当然だが静まり返っていて、気配に押されてなぜか忍び足になってしまう。
これではまるで泥棒のようだと思い苦笑すると、先程秋丸に教えられた榛名の部屋の扉を開けた。床に転がっているダンベルに目を留め、阿部はため息まじりに呟く。
「色気ねぇ部屋」
いつか言われた言葉をそのまま返してやる。
机の上は野球関連の雑誌が散らばっており、教科書はどこにも見当たらない。英単語覚えるくらいなら筋トレしていた方がましだと、豪語しただけのことはある。
阿部は緩やかに視線をベッドへ映した。そこには息苦しそうに喘ぐ自称恋人の姿があった。
眉間に皺を寄せ、なにか呟いている彼へ耳を寄せる。
「かや……。タカヤ……こっちに来い」
「……どんな夢見てんだ」
よからぬ夢であることは一目瞭然だった。しかし真っ赤になった頬を見ていると、突っ込むこともはばかられる。
ひとまず鞄からハンドタオルを取り出して部屋を出ると、洗面所でそれを濡らして戻ってきた。遠慮がちに触れた頬は熱く、さすがに放置しておけない。
妙なところで律儀な性格を呪いたかったが、今はあきらめるしかなさそうだ。
椅子の背もたれを引いてベッドの傍らに腰掛けると、濡らしてきたタオルを額に乗せてやる。引っ込めようとした手首を不意に掴まれ、阿部は思わず小さな悲鳴を上げた。
「だ、れ」
途切れ途切れに吐き出された言葉に阿部は無意識に唇を引き結んだ。
閉じていた目がゆっくり開かれ、何度か瞬きを繰り返す。
「タカ、ヤ?」
いつもむちゃくちゃなことばかり吐き出す唇が、ためらいがちに名前を呼んだ。
様子の違う相手に流され、うっかり肯定してしまう。
榛名の口元が途端に意地悪く笑んだ。
「さびし、かった、だろ」
「秋丸さんに頼まれただけです」
「うそ、つけ」
「熱、高いんでしょう。しゃべらなくていいから寝てください」
「やだ。お前、居るのに」
「じゃあ帰ります」
そう言うと、掴まれていた手首に強い力が込められた。引きとめる視線はそれ以上に強く、阿部は渋々浮かせた腰を下ろす。
「とりあえず水分摂った方がいいですよ。いったん手を放してもらえますか」
「そのまま、帰る気だろ」
阿部は嘆息すると、榛名の手に自分の手を重ねた。
「ガキみたいなこと言わないでください。あんた自分の状況がわかってるんですか」
「お前が、うちに来て、くれるなら。治らない方が、いい」
「アホか。チームにどれだけ迷惑かけてるか考えろ。どうせ薬も飲んでないんだろ」
榛名はすっかりふて腐れて口を尖らせている。
その姿に苦笑すると、今度は幼い子供を諭すように優しい声音で続けた。
「眠るまでちゃんと居てあげますから。まずはちゃんと薬を飲みましょう。いいですね」
「……わかった」
「薬はどこにあるんですか」
「食器棚の引き出しの右側」
今度は素直に手が離れる。
阿部は一笑してから立ち上がり、キッチンへ向かった。
部屋から出た途端、深いため息が零れる。てっきり弱った姿を晒してうろたえると思っていたが、予想とは真逆の行動をとられて困惑せざるを得ない。
うろたえるどころか、帰るなと引きとめる始末だ。苦しさを忘れたように満面の笑みを見せられると、どうすればいいのかわからなくなる。
何よりわからなかったのは、その顔を見た自分が一瞬安堵を覚えてしまったことだ。
これまでこれほどまでに深く誰かに思われたことなどない。
その想いを無視することはできなかった。だから……ここまで流されてきたのだ。流されているだけだと、思いたかったのに。
胸の内は違う答えを見つけている。
「遅い」
榛名はベッドの背もたれに身体を預けて腕を組んでいた。赤い顔でいくら偉そうなことを言われても説得力などなかったが、阿部は素直に謝って錠剤とグラスを差し出す。
「それ飲んだらちゃんと横になれよ」
「お前……母親か」
「いい子だから黙って寝てろ」
「はいはい」
鋭い眼差しを平然と受け流し、おとなしく横になる。珍しく従順な榛名に訝しげな視線を向けると、予想を裏切らない返答が返ってきた。
「添い寝してくれたら良くなりそうな気がする」
「そのまま永眠しやがれ」
「ケチ」
「なんでもいいから、さっさと目を閉じろ」
「目閉じたらキスしてくれる?」
「殺すぞ」
「一回したんだから、二回も百回も千回も同じだろ」
拳を握りしめて振り上げると、大仰な悲鳴を上げて榛名が目を閉じた。
「わかりました、もう言いません」
「わかればいいんですよ、わかれば」
こんな乱暴な態度をとっていても内心では心配しているらしく、温くなったタオルを手に取って椅子から立ち上がろうとする。それを再び榛名の手が制した。
「どこ、行くんだよ」
「タオル濡らしてくるだけですよ。他になにか欲しいものあったら買ってきますけど」
閉じていた目は開かれ、訴えかけるような視線を向けてくる。
阿部は左手でタオルを握りしめたまま立ちつくしている。
「なんもいらないから、側に居ろ」
「でも、タオル」
「オレが寝るまで、側に居るんだろ。嘘つく気か?」
「わ、わかりましたよ」
そこを突かれては返す言葉もない。
いくらその場しのぎの台詞だったとはいえ、自ら吐いた言葉に責任を持たないわけにはいかなかった。不承不承そこに留まると、さっさと眠るよう視線で促す。
「さっき、お前の夢見てた」
「あぁ……」
先程の寝言を思い出して苦い表情を浮かべる。
よからぬ夢と断定していた、例のあれだ。
「二人で投球練習してた」
「投球練習?」
「お前がオレの球捕れなくて、へこんでた」
「はぁ……」
予想していたものと随分違う内容に戸惑ってしまう。阿部は間の抜けた相槌を打ちながら榛名の話に耳を傾けた。
「でもお前、すげぇな。それでも絶対あきらめない。あの目に惚れた」
「はぁ?」
「だからオレも、あきらめないことにした」
「野球、やめようとしたらしいですね」
「野球もそうだけど、お前のことも」
「やめとけばよかったのに」
「それができたら、苦労はねぇよ」
額に手の甲を乗せて自嘲気味に呟く。
どうしようもない想いを持て余しているのはどうやら阿部だけではないらしい。
「どうしようもない馬鹿だな、あんた」
「そんな馬鹿に惚れたお前は、もっと馬鹿だ」
「惚れてねぇよ。つーかさっさと寝ろ」
薬がようやく効いてきたのか、榛名は薄く笑って目を閉じた。間もなく寝息を立てた彼を一瞥すると、立ち上がって鞄を手にする。
窓の外はいつの間にか薄暗くなっていた。
「さっさと良くなってくださいよ、元希さん」
肩越しに振り返って見た寝顔は、訪れた時のものとは比べものにならないほど穏やかなものだった。
阿部の口元は知らず笑みを形作っている。
また明日、声に出さずに伝えると、部屋をゆっくり後にした。