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「お前、オレのあと追いかけて来いよ」
「なんで」
「好きだからに決まってんだろ」
 生まれて初めて受けた告白は、男からのものだった。
 誰かが自分を想ってくれているというのは普通悪い気はしないものだが、相手は世界一大嫌いな男だ。答えはひとつしかない。
「嫌っす」
 阿部隆也は冷たく言い放って相手を睨み据えた。
 自己中心的で自信過剰な男の名は榛名元希。シニアでバッテリーを組んでいたが、彼が引退するため今日で顔を合わせることもないと思いせいせいしていたところに、この告白だった。
 阿部は目をすがめて相手の真意を窺っている。これまで衝突ばかりで、一体どこに愛情の芽生える隙があったのかさっぱりわからないのだ。
 これは嫌がらせに違いないという結論に至ったが、榛名の表情は至極真面目である。不遜な態度は今に始まったことではないが、告げられた内容が内容なだけに不快感が募るばかりだ。
「気持ち悪い冗談は勘弁してください。それじゃあ」
 最後の最後まで面倒臭い奴だった、阿部は内心で毒づいて踵を返した。



 あれから一年が経った。
 無論榛名のあとを追いかけるはずもなく、あの日の告白はすでに風化していた。
 阿部は新しい相棒を見つけ、今度こそ上を目指そうと意気込んでいる。入学した高校の野球部はその年に軟式が硬式に変わり、心機一転を願っていた彼にとってこれ以上ない環境だった。
 自分の存在意義を問うほど精神的に追い詰められ、悔しさを噛みしめてばかりだったあの頃とは違う。
 これからは最高の日々を過ごすはずだった。はず、だったのだが。
「隆也!」
 どこかから聞こえてきた呼び声に寒気がした。聞き覚えのある声に、身体が拒否反応を示す。
 そもそもこんなところにその声が聞こえてくるはずがないのだ。幻聴に違いない。むしろ幻聴であって欲しい。
 阿部は無意識に神に祈っていた。しかしその願いはあっさり押し返される。
「……あそこにいるの、榛名さんじゃないかなーなんて、思ったりしちゃたり」
 徐々に怒気を孕みだした呼び声に、たまらなくなって栄口がやってきた。阿部の肩を掴んで、行ってやれと訴えかけるように揺さぶっている。
 ふと周囲を見回すと、青ざめたチームメイト達が視線で責めたてていた。お前、なにかしたのか、そう全員の目が語っている。
 阿部は首の裏に手を当てて、わざとゆっくりフェンスに向かって歩いた。見間違いであって欲しいと思う相手は、制服姿で腕を組み、たいそう偉そうな顔をして待っている。
 なぜ放課後の西浦高校に榛名が乗り込んで来たのか謎だったが、自己中心的な相手にまともな答えを期待するだけ無駄だ。
 阿部は覚悟を決めてフェンスに近づいていく。
「なにか用っすか」
「お前相変わらずナマイキだな」
「で、用は」
「聞かなきゃわかんねぇのか? ホント馬鹿だな、お前」
「用ないなら帰ってもらえます? あんたが居るとみんなの気が散って練習にならないんで」
「じゃあ、終わるまでベンチで待っててやるよ」
「……日本語わからないんすか」
「そっちもな」
 互いに鋭い視線をぶつけ合ったが、どちらも譲らないまましばらく時間が過ぎた。このままでは埒が明かないと判断し、花井を手招きする。
 花井は引きつった笑みを浮かべて駆けてきた。
「なに?」
「この人がベンチで練習見たいらしいけど、主将の許可が必要かと思って」
 花井が断ればいくら自己中心的な榛名でもあきらめるだろうと、微かな希望を胸に問いかける。
 花井は無言のプレッシャーを受け、額から流れる汗を拭った。気のせいでなければ、榛名の双眸が鋭い光を放って威嚇している。
「み、見るくらいならいいんじゃ」
「……花井」
 獰猛な獣の攻撃を恐れた主将は、あっけなく白旗を揚げた。あえなく潰えた阿部の野望に、榛名は満足そうに口角を上げる。
「いいってさ」
「じゃあ、どうぞご勝手に」
 こうなったら居ないものとして振舞うしか道は残されていない。阿部は小さく頷いて三橋の元へ走った。
 三橋は予想通りというべきか、榛名が気になってちらちら様子を窺っている。居ないものとして振舞おうとしてもこれでは無理な話だ。
「三橋、あいつは無視してやるぞ」
「へ? あ、う、うん」
 しゃがんでミットを大きく外に構える。寸分の狂いもなく、球はそこへ収まった。
 ふと阿部の脳裏に過去の記憶がよみがえる。
「ノーコン、少しはましになったか」
 榛名とバッテリーを組んでいたとき、ほとんど構えたところにボールが飛んできた記憶がない。
 おかげで身体は痣だらけだった。球が速いことだけが取り柄の相棒は、それを訴えても馬鹿にして笑うばかりで、何度怒りを噛み殺したかわからない。
 それでもミットに球を収めた瞬間の快感を一度味わってしまえばとらわれて、いつか認められたいと願い続けていた。
 榛名個人に抱く感情はあまりいいものではなかったが、あの速球に魅せられた。
 歩み寄ろうと幾度となく努力をしたというのに、裏切ったのは向こうだ。いまさら近づかれても迷惑なだけだった。
 阿部は苦い記憶を再び封印する。もう二度と、あんな思いはしたくない。



「こんな遅い時間までごくろうなことだ」
 お前もな、阿部は声にならない突っ込みを胸の内で繰り出した。
 日が暮れたらさすがに帰るだろうとたかをくくっていたが、榛名は妙なところで有言実行タイプである。常識的な人間ならば遠慮するところだが、マネージャーお手製のおにぎりまでちゃっかり食べる始末だ。
 すっかり殿様気分でふんぞりかえっている元相棒を認め、阿部はがっくりと肩を落とした。ここまでくると、相手の用件を早急に片付けなければ身の危険すら感じてしまう。
 昔の恨みならお互い様だ。
 肩を大事にする榛名のことだ、拳を交えるような真似はしないだろうが、警戒せずにはいられない。
「こんなところで無駄な時間過ごしてる暇ないんじゃないですか。どうせ練習サボったんでしょう?」
「そんなの、お前が気にすることじゃねーよ」
「まったくもってそうなんすけどね。あんたがどこでなにしてようと、オレには関係ないんですけど」
「お前、マジでかわいくないな。昔の方がましだったよ」
「かわいくなくて結構」
 ロードワークも兼ねて乗り込んできたという榛名に合わせ、自転車を押していく。無視して走り去ることもできたが、そんなことをした日には明日以降も悪夢がフェンスの向こうにやってくる気がした。
 阿部は深いため息を零してうなだれる。
「で、用ってなんすか」
「お前さ」
 交差点でようやく立ち止まる。青に変わる前に話を済ませてしまいたい阿部は、視線に苛立ちを含めて相手を睨み据えた。
「オレが言ったこと忘れてんだろ」
 見下ろす双眸には微かな影が差している。
「なんのことですか」
 本当に思い当たることがなかったため、阿部は戸惑いがちに小首を傾げた。
 榛名はわざとらしくため息をついて、阿部の肩を掴む。
「お前が好きだって、一年前に言ったろ」
 すっかり記憶から消えていたあの日の告白が、今鮮明によみがえる。
 阿部は瞠目して隣を見上げた。
「あれ、嫌がらせじゃなかったんですか」
「オレが嫌がらせするような奴に見えるか?」
「はい。それはもう、思いきり」
「そういや……オレはサイテーなんだっけ」
 榛名が自嘲気味に笑う。
 ここでいっそ「ぶっ殺すぞ」くらいの暴言を吐けば反撃のしようがあるのだが、殊勝な態度に出られると調子が狂ってしまう。
「本気だってのは、わかりましたけど。答えは一年前と同じです」
「なんで?」
「なんでって。あんたが嫌いだからです」
「絶対?」
「は?」
「一ミリくらい好きかもしれないとか、そういうのねーのかよ」
「ないです。それじゃあ」
 信号が青に変わった。話をぶった切るにはこれ以上ないタイミングだ。しかし信号を渡ろうとした彼の腕を、力強い左手が引き止める。
「待てよ」
 阿部は自分を引き止めた左手を凝視する。なによりも榛名が大事にしているものだ。それは動きを封じるのに十分だった。
「オレのどこが気に食わないんだ」
 信号が点滅しだしたので、仕方なく向き合った。
 このままあっさり帰してくれる相手ではない。
 あきらめて大きく息を吸い込むと、なるべく相手の自尊心を刺激しないよう言葉を選んだ。
「性格の不一致」
「なんだ、それ」
「あんたとオレじゃ、見てるとこが全然違うんすよ」
「もっとわかるように言え」
 阿部は一瞬ためらったが、意を決して本音を口にする。
「あんたはずっと先ばかりを見てる。でもオレはもうちょっと手前の未来を見てるんです」
 わかりやすく説明したつもりだったが、榛名の頭上では疑問符がぐるぐる回っている。真面目な話をしているはずなのに目の前の男は間抜け面を晒しており、阿部は痛む頭を抱えて次の言葉を考えた。
「とにかく、絶対無理だってことです。だいたいオレは男なんですよ?」
「見りゃわかんだろ、そんなもん」
「だったらオレの言いたいこと、わかりますよね」
「つまりお前は、勝負する前に逃げるってわけだ」
「なんでそうなるんですか」
 言いたいことがなにひとつ伝わらないもどかしさに苛立ちが募る。
 バッテリーに不可欠なのはコミュニケーションだと最近百枝に教えられたが、今まさに自分達に決定的に欠けていたのはこれだと痛感した。
 見ている方向がまるで違う。
「だいたいなんでオレなんすか。あんたとはケンカした記憶しかないんですけど」
「え? 今ここでそう来るか」
 さっきまでの威勢はどこへ行ったのか、突然榛名が照れくさそうな表情を浮かべて俯く。急な変化についていけず、阿部の頬は引きつった。
「知りたかったら、オレのこと好きになれ」
「じゃあ聞かなくていいです」
「待て、その返事はマジでかわいくねぇ」
「野郎にかわいさを求める時点でどうかしてますよ」
「違うってそうじゃなくて。お前だけなんだよオレに向かってきたのが」
 榛名は余程焦っているのか、半ば噛み気味に捲くし立てた。必死な彼にお目にかかる機会などないに等しいので、しばらく眺めておくことにする。
「あんだけ身体中痣だらけになっても、お前絶対逃げなかったろ。それってすごいことだと、思ったわけだ。文句あるか?」
 聞けば聞くほど混乱してしまう。それでも冗談ではないということだけは十分に伝わり、阿部はますます苦い表情になった。
 額に手を当て、幼い子供をなだめるように優しく伝える。
「言いたいことはわかりました。でも答えは変わりません」
「……わかった」
 もう何度信号が点滅するのを見送っただろうか。
 ようやく榛名の口から了承の言葉を聞くことができ、阿部は内心で歓喜の声を上げていた。これで明日からの人生はまたいつも通りの平穏なものに戻る、そう思い安堵のため息をつく。
 短い別れの言葉を交わし合い、それぞれ帰路に着く。去り際の榛名がうなだれているのが少し気になったが、情けはかえって相手に失礼だと思い直し、振り返らずに走り去った。



「……誰だ、あいつ入れたの」
 地を這うような不機嫌な声に、問いかけられた水谷の視線がためらいがちに移動する。その先には田島と三橋の姿があり、二人はベンチで榛名と親しげに話しこんでいるようだ。
 阿部はこめかみを押さえて怒りを静めようと努めるが、うまくいかない。グラウンドに堂々とユニフォーム姿で侵入している部外者を仕留めようと、大股でそちらへ向かった。
「銃持ってたら乱射しそうな勢いだな」
 水谷の呟きは誰に届くこともなく風にさらわれた。
「なにしてるんですかねぇ、そこの人」
 目をすがめて部外者を威嚇したが、相手は腹が立つほど満面の笑みで答えた。
「そっちの監督の許可は取ってある」
「そんなこと聞いてねぇ。なにしてんだよ、あんた」
 一瞬でもわかってくれたと期待した自分を呪いたい気持ちになった。
 しかし百枝まで取り込んでいるとなると、追い払うのは至難の業だ。その上、どうやら着々と味方をつけているらしい。
「そんな怒んなよ。別にいいじゃん」
 事情を知らない田島が突っかかってくる。三橋まで今にも泣き出しそうな目で訴えかけてきた。他の部員は関わらないと決め込み、各々練習に打ち込んでいる。
 圧倒的に不利な状況で、最後の望みを託そうとたまたま近くを通りかかったマネージャーを見つめた。
「あ、そうだ。榛名さん、今日のおにぎりの中身はなにがいいですか?」
「今日は梅」
「あんまり調子に乗るなよ」
「なんでそんなにキレてんの」
 この状況をどうとらえればいいのか、わからない。痛む頭を押さえて必死で怒りを抑えると、呑気な顔で居座る元相棒を睥睨した。
 もっともそんな攻撃で怯むような相手ではない。
「き、今日から、榛名サン、ここで筋トレする、って」
 三橋のとどめに返す言葉もない。阿部は怒りで震える腕を自らの両手で押さえ、顔をそむけて冷たく告げた。
「こんなことやっても無駄ですよ」
「お前がそう言うと思って。オレなりにちょっと考えてきた」
「無駄なことを……」
 そこまで自分に執着する理由が理解できない。
 今までこれほどまでに誰かに求められたことはなく、隙を見せれば引きずり込まれそうだった。
 流されてしまえば、あの日と同じ悔しさを味わうような気がしてならない。
 所詮合わない二人なのだ、そう言い聞かせ舌打ちする。
「勝負、しようぜ」
 榛名の双眸が鋭い光を放つ。それは本気の球を投げるときのものと同じで、封印していた快感を呼び覚ました。
「今から一球だけ本気で投げる。お前がそれを捕れたら、今後一切ここには来ない」
 本気で投げる、という台詞に知らず胸が弾む。
「捕れなかったら、オレのものになれ」
「は?」
 次の台詞は聞き捨てならなかったが、彼が突っ込む前に近くにいた花井がすかさず奇声を発していた。
 榛名はそちらを一瞥すると、口端を微かに上げて笑んでみせる。
「ここに居る全員が証人だ」
 どうだ、と強気な視線が問いかけてくる。
 一瞬逡巡したが、本気の一球の魅力が勝った。
 昔はそれをミットに収めることに夢中で、バッテリーを組めたことが幸運とすら思っていた日もあった。
 深く頷くと、榛名の口元が綻ぶ。
「交渉成立、だな」


 部員全員が見つめる中、大勝負が行われようとしている。
 監督と顧問が不在なのがせめてもの救いだったが、誰もが榛名を応援しているこの状況は、阿部にとって不快以外のなにものでもなかった。
 いつの間に全員を取り込んだのかと訝しく思ったが、原因はマネージャーにあるらしい。
「だって、一途な人って応援したくなるじゃない」
 物分りの良すぎるマネージャーに恨みがましい視線を送ったが、まったく効果はなかった。その上かなり脚色して榛名の都合がいいように伝えられているため、すっかり阿部は悪者だ。
「お前みたいにいっつも怒ってるヤツを好きになってくれる奇特な人なんて、そうそう居ないぞ」
 そう言った泉はややこの状況を面白がっているようにも見える。からかっている輩も含め、グラウンドはすっかり榛名を応援する空気だ。
 味方がひとりも居ないことを改めて確認すると、阿部は覚悟を決めてプロテクターを付ける。
 冷静になった今だからこそ気が付いたが、なにひとつメリットのない勝負を受けたものだ。
 相手はコントロールの悪い、速球だけが売りの投手だ。勝率は限りなく低い。
 しかし一度受けた勝負から逃げるのはプライドが許さない。
「言っとくけど、オレはせこい真似なんかしねぇ。ど真ん中に投げるから、そこに構えてろ」
「え?」
「その代わり、約束は絶対守れよ」
 いくらコントロールの悪い榛名といえども、ど真ん中をはずすとは到底思えない。
「勝つ気、あるんですか」
「決まってんだろ」
 自信に満ちた横顔に不覚にも胸が騒いだ。
 利己的な男が見せる真摯な姿に押され、その自信に呑み込まれそうになる。
 それでも負けるわけにはいかない。
「じゃあ、始めようぜ」
 片頬を歪めて榛名が笑う。
 阿部は深く頷いてホームベースへ向かった。
 榛名も颯爽とマウンドへ向かう。
「どうなると思う?」
 張り詰めた空気の中、ベンチで栄口が零した。
「つーかさ、榛名さんってシュミ悪くね」
「しっ、阿部に聞こえる」
 泉の冷めた呟きに慌て、花井がその口を塞ぐ。
「聞こえてんだけど」
 しゃがんでミットを構えると、小声でひとりごちた。
 しかしこればかりは阿部本人ですら泉の意見に賛成だ。なんでわざわざ反りが合わない、おまけにかわいげのない自分を選んだのか、胸ぐらを掴んで問いただしたい気分だった。
 この際性別のことは不問にしておく。
「肩、ならしたほうがいいですよ」
「心配してくれるんだ」
「オレのせいって言われたくないですから」
「素直じゃないな」
 返事が面倒になり、無言でミットを振って合図を送る。
 さっさと始めてさっさと終わらせたい。
 久しぶりに対峙した昔の相棒は、背が伸びたせいかやけに力強く映った。
 負けるかもしれない、微かな不安がよぎる。
「そろそろいいんじゃないですか」
 手のひらでボールを転がしている榛名に声をかけると、彼は不敵な笑みを浮かべて頷いた。
 阿部は深呼吸をして、ミットを真ん中に構える。
 マウンドに立つ男も、途端にまとう空気を変えた。
 この一球ですべてが決まる。
 大きく振りかぶった瞬間、周囲が息を呑んだ。
「あ……」
 指先を離れた球は、宣言通り真っ直ぐ構えたミットめがけて疾走してくる。
 捕ってみせる、そう内心で意気込んだが、収めたと思った瞬間、球威に押されてのけぞってしまった。
「ボール……零れたぞ」
 半ば呆然と花井が呟く。
 阿部は信じられないとばかりに地面を転がる硬球を見つめた。
「お前の負け」
 追い打ちの言葉が頭上から降ってくる。
 情けなく眉尻を下げてうなだれていると、正面にしゃがんだ榛名に覗き込まれた。
「今度は忘れたなんて言わせねぇからな」
「勝手に、しろ」
 そう言うのがやっとだった。ただ今は敗北を噛みしめ、俯くしかなかった。



「お、おう」
「……なにやってんすか。人の家の前で」
「偶然だな。オレも走ってたところで」
 時刻は午後九時過ぎ、部活動を終えてようやく家の前に辿り着いたのだが、そこには不審者が待ち構えていた。
 トレーニングウェアに身を包んでいかにも今しがた通りかかったような顔をしているが、見え透いた嘘が通用するはずもない。
「なにか用ですか」
「なんだよ。付き合ってる奴に会うのに、いちいち理由がいるのか?」
「……それは」
 認めたくないが、勝負に負けた阿部に反論は許されない。
 突っ込みどころは多々あったが、そのすべてを飲み込んで精一杯の意地を張り通す。
「だったら、上がって行きますか」
「行く」
「なんでそんな」
「ん?」
「なんでもないです」
 そんなに嬉しそうな顔をするのだろうか。
 その表情につられてうっかり口元が緩んでしまった。
 勝負に負けて条件を呑んだといっても、心まで許したわけではない。
 相変わらず彼にとって榛名は煩わしい存在であり、できることなら早急に夢から覚めてほしいと願っていた。
 それでもふとした瞬間に揺さぶられる。
「適当に座ってください」
 知り合ってそこそこ年月が経っていたが、榛名を招き入れたのは初めてだった。当時は親しく会話するような間柄ではなく、プライベートな話をした記憶はまったくない。
 榛名は興味深く室内を見回したのち、ベッドの縁に腰掛けた。
「色気ない部屋だな。お前らしい」
「悪かったな」
 色気がないと言われればその通りだが、この部屋で過ごす時間が少ない彼にとってどうでもいいことだった。
 阿部は鞄を床に放ると、上着の裾に手をかけて脱ぎ捨てる。母親がベッドの上に積んでいる洗濯済みのシャツを手に取り、かぶろうとしたところで止められた。
「そんな慌てて着替えなくてもいいだろ」
「は?」
「どうせこれから脱ぐんだし」
「いや、脱がねぇよ」
「お前は脱がなくていいよ。オレが脱がすから」
「あんたマジで日本語わかってないだろ」
 近づいてきた身体を押し返し、急いでシャツを着る。
 榛名は舌打ちしてあからさまに不機嫌な表情になったが、まだあきらめきれていないのか、視線で訴えかけていた。
 それを無視してデスクチェアの背もたれを引くと、腰掛けて脚を組んだ。
「そもそも、男同士でなにをどうするっていうんですか」
「よくわかんねーけど、その辺は勘でどうにかなるだろ」
「勘?」
「でもあれだ。お前が痛くないようにちゃんとするから」
「ちゃんとってなんだ、ちゃんとって」
「とりあえずオレに任せろ」
 そううそぶくと、榛名は自信に満ちた表情で誘いをかけてきた。
 阿部はこめかみを押さえて、拳を突き出したい衝動をこらえる。
 この男と居ると、常に苛々させられっぱなしだ。
「そういう用だったら帰ってもらえますか。疲れてるんで」
 机に頬杖をつき、虚ろな視線を投げかける。
 いくら勝負に負けて形式的には恋人同士になったといっても、こんな男に抱かれるなどごめんだ。
「まだオレのこと嫌いなのかよ」
「そうですね」
「じゃあどうすれば好きになるわけ」
 まるで幼い子供と会話をしているような気分になる。
 ある程度大人ならば、遠回しな表現でも察して引いてくれるが、榛名は自分の納得がいくまでどこまでも食らいついてくる。それが煩わしいのだ。
 これだけはっきりと意思表示をしているというのに、異常なまでの執着を見せてくる。
「そんなの……知るか」
 顔をそむけて吐き捨てると、視界の端で榛名が立ち上がるのが見えた。
 攻撃を仕掛けてくるかと思って身構えたが、相手はしゃがんで目線を合わせ、深呼吸をひとつしてから、額に掠めるようなキスをしただけだった。
「今日はこのくらいで勘弁してやる」
 真っ赤な顔で偉そうに言われてもまったく決まらず、阿部は額を押さえて呆然とその姿を見ている。
「先に言っとくけど、オレは会いたい時に会いに来るからな。だからお前もオレに会いたくなったらすぐ呼べよ。いいな」
 あっけにとられて返事もできない。榛名はぶっきらぼうに言い置いて大股で部屋を出て行った。
 去り際は耳まで赤くなっていたが、驚きで固まっている阿部はそれに気がついていない。
「なんなんだ、マジで」
 それ以外に言葉が見つからない。
 出口のない迷路に放り込まれた気分になって、苦笑するしかなかった。



「いや、その、なんていうか。愛されてますね」
「あ?」
「なんでもないです」
 榛名は宣言通り、会いたくなったら会いに来るという姿勢を貫いている。彼が自分のスタンスを変えないのは昔からだったが、相手の都合などお構いなしの傍若無人ぶりに、西浦高校の野球部員達はただ感心するばかりだった。
 ここまでくると、その行動に感動すら覚えてしまう。
 阿部を除いた全員がすっかり榛名を一員として認めるムードの中、ひとり必死に抗っていたが、無駄な抵抗でしかなかった。
「ここは全力で突っ込めよ。あいつ、男だろ」
 傍らに佇んでいた栄口の胸ぐらを掴んで詰め寄ると、至極真面目な顔で返答された。
「それをおかしいと思わせないすごさが、あの人にはあるよ」
「目、開いてないだろ」
「ちょ、やめろって! なにすんの」
 怒りに任せて栄口の首に腕を回すと、無理矢理まぶたをこじ開けようとする。
 こうなったら敵を全員倒していくしかない。
 追い詰められた少年はまさに犯罪を犯す一歩手前だった。
「おい」
 自棄になっている阿部の肩に誰かの手が触れる。首に巻きついていた腕は強引に引き剥がされ、手首をしっかり捕まえられた。
 暴走中の彼にこんな命知らずの行動を取る人物など、ひとりしかいない。
「オレ以外の奴に気安く絡むな」
 噴飯ものの台詞に全身の力が抜け落ちる。
 助けられた栄口は顔を真っ赤にして俯き、そそくさとその場から逃げ去った。目の前で堂々といちゃつかれてはかなわない。
「別に絡んでねぇよ」
「あ? 思いっきり抱きついてただろうが」
「あんなもん、抱きついたなんて言うか」
「オレには絶対あんなことしないくせに」
「……わかったよ、すりゃいいんだろ」
 めんどくせぇ、と小声で呟き、勢いに任せて両腕を背中に回す。
 一瞬で離れようとしたが、力強い両腕に阻まれた。
「てめっ、なにして」
 日々のトレーニングの成果が遺憾なく発揮されている。いくらもがいても身体は自由にならず、暴れるほど締めつけが強くなる。
 背中がしなり、息を吸い込むのも苦しくなってきた。
 降参するのは癪だったが、このままでは窒息死してしまうかもしれない。
「は、なせ」
「先輩に向かって命令か?」
「頼む、から」
「じゃあ、こう言ったら許してやる。自分は榛名様のモノですって」
 それは死んでも嫌らしい。
 阿部は色をなくした顔をそむけ、唇を引き結ぶ。
 少し離れたところから見ていた部員達は、命よりもプライドをとった彼をじっと見守っていた。
「わかった。じゃあ百歩譲って様はなくていいや」
「そこじゃ、ねぇ。アホが」
「わがままだなぁ、お前って。自分の立場、相変わらずわかってねーの」
 耳元で囁かれ、そっと息を吹きかけられた。
 背筋に寒気が走り、阿部は情けない悲鳴を上げる。
「ご、ごめんなさい」
 とにかく謝るしかないらしい。
 自分に少しも否はないと確信しているのだが、このままではあらゆる意味で殺されてしまう気がした。
 肩をすくめて耳を庇う姿に嗜虐心をあおられた榛名は、口端を上げて至近距離まで迫る。
「よくできました」
 頭を乱暴に撫でられ、屈辱ともいえる言葉を投げつけられた。
 相手の満足そうな笑みに悔しさを噛みしめるしかない。
 いつもそうだった。
 歯痒さばかりを刻みつけられ、一緒に居ても苛立つばかりだ。
 どうすればそんな人間を好きになれるというのだろう。
 阿部は俯いたまま、湧き上がってくる苦さを吐き出した。
「やっぱ、無理です」
「ん?」
「あんたを好きになるなんて、無理だ」
 恐る恐る顔を上げると、傷ついた双眸が見下ろしていた。
 もう嫌がらせなんて思っていない。だからこそ余計な期待を持たせるのは申し訳ない気がする。
 いつ、という約束もできない、この先目の前の男を好きになる保証はない。いっそここで無駄な期待を切り捨てた方が、お互いのためかもしれない、漠然とそう思った。
「オレは……」
 眸がすがりついてくる。その視線を受け、傾ぎそうな心を懸命に引き止めた。
 榛名は掠れた声で続ける。
「一日でもお前に会わないと寂しいなんて思う、どうしようもない奴なんだよ。どうしてくれんだ」
 めちゃくちゃな言い分だったが、責めることができない。
 どれだけ固く閉ざしても、相手は強引に扉をこじ開けて割り込んでくる。
「一生側に居ろとか言わねぇから、とりあえず明日まで側に居ろ。そしたらまた明日、行けそうならその次の日まで側に居ろ。そうしてると、時間なんてあっという間に過ぎるんだよ。お前が言ったんだろ、自分は少しだけ先を見てるって。ずっと先のこと考えるから、無理なんて簡単に言えるんだよ」
「それは」
「反論があるなら言ってみろ。聞くだけ聞いてやる」
「あんたと居るとイライラしてばっかで、自分が嫌になる」
「大丈夫。オレはむしろ暴れん坊なお前に惚れたからな」
「暴れん坊?」
「オレを動かせるのはお前だけだ」
「よくもそんなこっぱずかしい台詞を次から次に吐けるもんですね」
「任せろ」
 気がつけばすっかりペースに乗せられている。
 ついさっきまで関係を終わらせる話をしていたはずだったが、恥ずかしい台詞に塗り潰されてしまった。
 阿部はなすすべもなく後ろから抱きすくめられている。
 部員達は気を遣ってロードワークに出かけてしまい、グラウンドには二人きりだ。きっと本気で抗えば振りきれるだろうに、それができない。
 最初は嫌悪だけだったというのに、どういうことなのだろうか。
 答えは見えそうで見えない。
「あんたはいつも勝手だ」
「そんなの、とっくに知ってんだろ」
「恥ずかしい直球の台詞ばっかり言うし」
「ストレートの速球が売りなんだよ」
 いくら攻撃を仕掛けてもすべてかわされる。
 思えば、あの勝負を受けた瞬間からこうなることが決まっていたのかもしれない。
 肩口に埋められた榛名の頭に手を置くと、乱暴に掻き回してやった。
 いつもの仕返しだ。
「一ミリずつでいいから、オレを好きになりやがれ。努力もしないで無理なんて、お前らしくねーぞ」
 尊大な態度で突きつけられた告白に苦笑が漏れる。この先もこうして振り回されるのだと思うと、笑うしかなかった。
「なにがおかしいんだよ」
「あんた、本当に趣味悪いなと思って」
「文句あんのか」
「別に」
 きっとこの男から逃げることなどできない。そう告げられた気がしてあきらめのまじったため息を零す。
「やっとあきらめた?」
「とりあえず……明日までは側に居る覚悟を決めたところです」
「お前にしては上出来だ」
 もうどうにでもしてくれと、背中を榛名の胸に預けた。
 大嫌いなはずなのに胸が騒ぐ。
 その理由を知るのは、少し先の未来。