ボケブラックの華麗なる戦いの日々
日はすっかり暮れ、グラウンド脇のベンチの灯りの下では十人の少年達がおにぎりを手に談笑していた。
泉は横目である人物の居場所を確認すると、徐に立ち上がる。部員達の輪から少し離れたところにその人物の姿があった。泉は不敵に歪んだ口元を強引に引き結ぶと、軽快な調子で声をかける。
「阿部」
阿部はやや不機嫌な表情で振り返った。そんな彼の正面で萎縮した様子の三橋。どうやら今日も、阿部は抑えきれない苛立ちをぶつけてしまったらしい。
普通ならばなんでもないことでも、相手が三橋となると話は別だ。いちいち過剰に反応し、捻じ曲がった解釈をしてしまう。最初は部員の誰もが理解しがたい行動と思考に戸惑ったが、今となっては仲間として温かく見守ってやろうと各々思い至ったのだった。
約一名を除いては。
「何だよ」
無言で自分を見下ろす視線に阿部は怪訝な表情を向ける。そんな阿部をしばし眺めたのち、大きく息を吐いて泉は腰を下ろした。
「おにぎり変えてくんない?」
まだ包装されたままのそれを指差して彼は笑った。一見無邪気に見えるものだったが、意図をわかりかねた阿部は眉間の皺を深くした。
「お前さっき鮭がいいって言ってたじゃん」
「それが?」
「オレやっぱり昆布な気分なんだよね」
頼む、と手を合わせられ、渋々手にしていたおにぎりを差し出した。空腹が少しでもおさまればよかったので、断る理由も特にない。三橋は咀嚼しながらその様子をぼんやり眺めていた。
一方思惑通りに作戦を遂行した泉はそそくさとその場をあとにする。
「くたばれ、阿部」
呑気におにぎりを頬張る阿部を振り返ると、遠巻きに様子を窺っていたチームメートに成功の合図を送る。
「もうすぐアイツ、星屑になるぜ」
翌日、星屑になっているはずの人物は昨日と何も変わらない様子で登校してきた。仏頂面で部室へ向かう彼の後ろを不満げな表情の泉と栄口がついていく。
「どうなってんの?」
「こっちが聞きてぇよ。その辺に生えてた草片っ端から煮込んだ、特製汁をおにぎりに塗りこんだっつーのに」
「……いや、それ普通死ぬから。つーかどこにそんなもん隠してたんですか」
「ったく、なんで生きてんだよアイツ」
「……やる気満々じゃないっすか」
悪びれない様子で言ってのけるチームメートに少々恐ろしさを感じた栄口だった。
かたや何の変化もないと思われていた阿部の異変にいち早く気がついたのは、バッテリーを組んでいる三橋だった。
他の部員は素早く着替えて部室をあとにしたが、阿部は隅のベンチに腰掛けたまま俯いている。一向に動く気配を見せない相棒に、三橋はまたよからぬ妄想を膨らませた。
「あべ、くん、オレが、イヤに……」
やはり自分とバッテリーを組むのに嫌気がさしたという解釈に至ったらしい。
いつもの阿部ならばここで立ち上がって怒鳴りつけているところだが、彼は口元に歪んだ笑みを湛えていた。顔をゆっくり上げると、目を細めて三橋に視線をぶつける。何かを察したのか、三橋は慌てて目をそらした。
「お前がイヤになったって言ったら、どうすんだ?」
阿部は視線をはずさないまま、一言一句ことさら丁寧に口にした。
三橋の顔が急激に青ざめていく。その様子を面白そうに眺めていた阿部だったが、何かを思いついたらしく、口を手のひらで覆った。意味深な動作に見せかけておいて、実はにやけそうになった唇を隠しているだけだったが。
「オレの言う通りにすればそんなこと」
「オレ、オレっ、阿部君の言う通りに、するよっ!」
言葉の途中で半ば叫ぶように言った。三橋は必死の形相で訴えかけると、グラブを胸にしっかり抱きしめて何度も頷く。
あまりにも事が予定通りに運び、阿部は満足そうに笑んだ。
「じゃあさ、キスしろ」
不安が解消されたことに浮かれて、部室をあとにしようとしていた三橋の足が止まる。阿部はベンチに腰掛けたままぼんやり宙を見つめていた。何も考えていないと見せかけて、三橋が戻ってくる確率を計算していたりする。
振り返った三橋の顔は硬直しており、せわしなく瞬きを繰り返しながら意図を尋ねている。無論答えてやる気などさらさらない阿部は、不気味なほど爽やかな表情で催促した。
「早く」
「あう……」
追い込まれて意味不明な呻き声が漏れた。しかしその足はなかなか外へ逃げ出そうとはしない。三橋はすっかり混乱し、頭を抱えてその場でじたばたしていた。
「イヤなら別にいいけどな」
崩壊寸前の小さな頭に冷めた声が響く。突き立てられた言葉に三橋の動きがぴたりと止まった。
阿部はその動作を腕を組んで観察している。あと少しか、胸の内でそう呟きながら。
一手ずつ詰みに近づいていく瞬間を楽しんでいた。ひとつ駒を進めるたびに、三橋の表情は面白いくらい変化する。
「オレっ、阿部君の言う通りに、する、よっ!」
宣言しているのか、自分に言い聞かせているのか、三橋はそう意気込んで両手の拳を握りしめると、一歩ずつ阿部の元に戻ってきた。決意した瞳はしっかりと阿部を捕らえている。
阿部は座ったまま、視線を上げて目の前の少年を見つめる。口の端から零れそうな不敵な笑みを噛み砕き、代わりに優しいため息を漏らした。
それは自分を肯定するものだと勝手に受け取った三橋は安堵し、小さく笑んでから屈んだ。少し顔を寄せると、跳ねた髪の先が阿部の額をくすぐる。阿部は待ちきれなくなって、三橋の耳に手をかけようとした。
しかし指先が届く前に目の前の少年はその場に崩れる。状況が理解できずに目を瞬かせていると、崩れた三橋を支える背後の人物がようやく視界に入った。途端に阿部は不機嫌さを剥き出しにした表情をみせる。
「何か?」
苛立ちを抑えきれず掬うように睨みつけたが、泉は隣りに立っていた西広にぐったりした三橋を預けると、右手をさすりながら澄ました表情で一歩前に出た。
「試し斬りでござる」
「全然うまくねぇよ。手刀か? あ?」
「じゃ、そーいうことで」
「待て、女男」
あからさまな挑発に泉の足が止まる。引きつった笑みを浮かべて振り返ると、挑戦的な眼差しにぶつかった。阿部は気だるそうに足を投げ出し、わざとらしく顎を突き上げる。それを合図に泉は一歩踏み出した。
「空気読まなくて悪いんだけど。早く行かないと練習始められないよ」
まさに臨戦態勢だった二人を冷静な言葉が遮った。西広は念を押すように二人を交互に見て微笑する。
「はいはい。行きますよ、行きますって」
西広に背負われたまま、この件の一番の被害者はようやくグラウンドへ到着したのだった。
思わぬ邪魔が入って不機嫌度が三割増の阿部は、練習中も虎視眈々と次の機会を狙っていた。物事が計算通りに運ばないことほど腹立たしいことはない。
投球練習の前に三橋をベンチに呼び寄せ、強引に次の作戦を実行に移そうと試みる。向かい合って座ると、本人の中では決め球だと思い込んでいる熱視線を送った。阿部自身は自分の熱い思いをすべて込めたつもりだったが、三橋は恐怖におののいてむせた。
「三橋、新しいサイン考えようか」
唐突な提案に三橋は目を白黒させる。間抜けな表情に苦笑しながら阿部はさらにたたみかけた。いかなる場合でも容赦しないところがなんとも彼らしい。間を置かずに攻撃を続ければ、目の前の少年の思考が停止することを知っている。
既に計算通り、ベンチの上で正座した三橋は頭を抱え、負の妄想に飲み込まれそうになっていた。しばらくのたうち回る相棒を肴に、これまでの自分達の短い軌跡を思い返すことにする。
思えば目の前の相手に言葉が真っ直ぐ届いたことはほとんどない。幾度も必死でぶつけてようやくわずかに手応えがあるくらいだった。届く前に自分の吐き出した青臭い台詞に身悶えしたこともある。
バッテリーと言っても所詮は出会ってまだ日が浅い他人。三年間自分の言う通りに投げていればそれでいいと思っていたのだが。いつしか相手のために何かしてやりたい、今の自分の感情を理解してほしい、と思うようになっていた。
理解してほしいという思いはやがて大きく膨らみ、今となっては肝心な「理解」が抜け落ちてただ「欲しい」ばかりが前に出てきている。
「三橋」
妄想の穴でのたうっていた三橋は呼び声にはっとする。よほど悪いことを想像していたのか、今にも泣き出しそうな顔である。何を告げられるのか不安に思い、彼はじっと女房役の次の言葉を待った。目尻に滲んだ涙が目の前の獣を扇情するとも知らずに。
阿部は内の獣を押し殺して無理矢理笑んでみせる。本人は優しい笑顔のつもりだったが、実際は歪んだ不気味なものに仕上がっていた。
三橋は怯えて大きくのけぞる。
「ここ、座れよ」
凶悪な顔で自分の腿を叩く阿部。これも本人は優しく促したつもりだったが、若干緊張していたため声が震え、三橋には脅迫めいたものとして届いていた。
理由はわからないが、座らなければ嫌われてしまう、三橋はそう判断しておずおずとそこへ近づいた。何よりもサインを出してもらえなくなる恐怖には勝てない。マウンドでの孤独は根深く彼の心を侵食していた。
言われるままそこに座ると、さっきまで視界に入っていなかったグラウンドが映る。チームメート達が懸命に打撃練習に励んでいる姿が見えた。舞い上がる砂埃の中で田島の声がひと際大きく響いている。その声に反応して三橋が「あっ」と小さく声を上げた。打ち上げられたボールは緩やかな弧を描いて飛んでいく。
これだけ近くにいても自分へ関心が向かないのに苛立ち、阿部は両腕で三橋の体を締めつける。向けられた背中がこれ以上離れていかないようにする術は他に知らない。三橋が驚いて硬直したのを認めると、頬を肩口に埋めた。
近づいたくらいでは満足できない。触れただけでは物足りない。次から次に欲が押し寄せてくる。
鈍感な三橋もさすがに身の危険を感じたのか、強張った顔で身をよじった。
「逃げらんねぇよ」
低く重たい声が体をさらに締めつける。
三橋は今にも壊れてしまいそうな心臓を心配して俯き、固く目を閉じた。グラウンドを撫でる風の音もチームメート達の声も、激しい鼓動にかき消されて遠ざかっていく。
「はーい終了。これ以上は延長料金な」
すぐ側で鈍い音が聞こえ、驚いた三橋は目を見開いた。視界に映ったのは汚れたユニフォームである。ゆっくり視線を上げると、右手に息を吹きかける泉の姿が見えた。
「三橋、今のうちにこっち来い」
自由を奪っていた邪な両腕がいつの間にか解かれている。泉に腕を引かれてそこから抜け出すと、肩をすくめ、そっと泉の背後に隠れて様子を窺った。
阿部は痛みに顔をしかめ、両手で頭を押さえている。
「オレ、最近踵落としも覚えたんだよね。試していいだろ?」
「テメェ……」
互いに鋭い眼光を向けて相手を威嚇しあったが、どちらも怯まず、背に隠れた三橋のみ小刻みに震えていた。少年は人一倍険悪な空気に敏感である。泉のユニフォームの端を握りしめ、背中に顔を埋めてじっと事態の収束を待っている。
しかし阿部の脳内でそれは歪んで変換され、わずかに射し込んでいた日の光を押しやるほどの深い闇を纏い始めた。
「オレさぁ、お前嫌いなんだよな」
「あーオレも」
阿部は傍らに置いていたプロテクターを装着しながら嘲笑を浮かべる。泉は怪訝な表情でその様子をじっと凝視していた。
「じゃあ、勝負始めるか。どっからでもかかってこい」
「待て、オッサン。それ汚くね?」
「だったらテメェもその辺から甲冑借りてこい」
腕組みして当然のように言い放つ。勝負はどんな手を使っても勝てばいい、というのが阿部隆也の持論だった。
泉は背中に張りついていた三橋を引き剥がすと、ベンチに座らせる。不安そうに見上げてくる視線に笑みを向けると、なだめるように頭に手を置いた。三橋は自分に優しく触れた手に口元を綻ばせる。
「そこのツンデレ、三橋に気安く触んな」
「あ?」
「お前、陰でツンデレって呼ばれてるらしいぜ」
凶暴な感情が泉の胸を突き破る。阿部の死亡フラグが立ち、青春の爽やかな風が吹き抜けていた周囲は瞬く間にどす黒いものに包まれた。
対峙した互いの胸によぎるのは相手の息の根を止めることのみである。
「勝負は拳で決めるのが男だろ」
どこでどう間違ったのか、一気にこの場でかたをつける流れになった。提案に阿部は口角を上げて答える。
「倒れた方が負けな」
既に勝負は始まっていた。互いにどうやって相手を欺くか、考えを巡らせている。
『とりあえず目ェ潰してやる』
心の叫びがシンクロしていたが、お互い卑怯な思考をおくびにも出さずに拳を構えた。
両脚に力を入れ、視線で開始の合図を送る。相手の気をそらそうと無駄に大声を張り上げ、一瞬でも早く拳を打ち込もうと大きく踏み込んだ。
両者は自らの勝利を確信した。乾いた音が辺りにこだまし、右手に感じた確かな感触に二人はほくそ笑む。
「守備練習始めるから集合だって」
伏せていた目を上げると、彼らの拳は巣山の手にそれぞれ収まっていた。この場の空気にそぐわないにこやかな顔に拍子抜けし、二人は目を瞬かせる。
「それから。二人とも練習さぼった罰で、例のプロテイン飲めって」
例の、という響きが少々恐怖を誘う。
ふと罰を受ける人数がひとり少ないことに気がつき、阿部は視線でその人物を探した。探し人は巣山の背に隠れ、わずかに顔を覗かせ様子を窺っている。
「三橋イジメたらダメだって」
優しく諭され、二人は行き場をなくした拳を力なく下ろした。やるせない気分に苦笑しながら、泉はその場にしゃがみこむ。やり場のない虚しさを持て余し、首に手を当ててため息まじりに呟いた。
「オレ達なんだったんっすかねぇ」
「知るか」
巣山に差し出された紙コップを手に、並んでベンチに腰掛けた。一足先にグラウンドへ戻っていく三橋の背中をなんとなく二人で見送り、込み上げてくる虚しさに肩を落とす。落ちた視線の先には深いため息を零さずにはいられない強敵があった。相手はカップの中で揺れながら彼らを嘲笑っている。
「お前先に飲めよ」
「あ? お前が先いけ」
「お前が飲んだらオレもいく」
「ふざけんな。テメェが先いけ」
不毛な争いはこのあと数分続いたが、結局決着はつかず。
しばらく阿部の半径一メートル以内に三橋が近づくことはなかった。