おまけ。


 一緒にいることがゴールではない。そこから様々な問題に直面するのが常である。
 準太はいままさにその只中にいた。もう何度目かわからないため息をついて机に突っ伏していると、先輩教師である河合和己に背中を叩かれた。
「生きろ」
「生きてますよ」
「まーた悩み事か?」
「オレにもいろいろあるんすよ」
 いろいろというひと言では片付けられない問題が目の前にあった。
 テストの採点はきりのいいところまで終わらせたが、この問題には答案がない。誰かが明確な答えを示してくれればこれ以上のことはなかったが、そうもいかない。思い出すだけでまた苛立ちがよみがえってきた。


 事の発端はついこの間の週末である。このところ週末の夜は勉強という名目で準太の家に入り浸っている利央だったが、それは単なる口実に過ぎなかった。なにかと理由をつけては準太の髪や耳に触れてスキンシップをはかり、怒鳴りつけながらも準太は最後に巻き込まれる。
「ねぇ準さん」
 甘えた声に準太の肩が跳ねる。こうやって呼びかけられるときはたいていよからぬことをお願いされるのだ。
 硬い声で返事をすると、首を傾げて覗きこむ双眸が近くにあった。準太は息を呑む。
「キスしていい?」
 とんでもない要求に口元が引きつる。これまでの彼ならばにべもなく突っぱねていた要求だったが、最近ではすっかり相手のペースにはまって反論もたどたどしい。
「……知るか。んなこと、いちいち聞くな」
「ダメですか?」
「勝手にしろ」
 やったーと子供のようにはしゃぐ少年に眉をひそめた。利央は迷いなく準太の腰を引き寄せると、小さく笑ってから唇を寄せてくる。いよいよ触れるというところで準太は固く目を閉じた。
 利央が近くにいるとどうしても体が固まってしまう。しかし数秒経っても触れてくる気配はない。薄く目を開けると、ぎりぎりまで唇を寄せた状態でじっと自分を見つめている双眸が映った。
「なんだよ」
 あくまでも強気の姿勢は崩さない。たとえ腰に手を回されていようが組み敷かれていようが、準太の態度が尊大なのは今までどおりだった。しかし表情は真逆だったらしい。
「今の準さんの顔、撮っとけばよかった」
 そう言って利央は制服のポケットから携帯電話を取り出した。準太は怒鳴りつけながら携帯を奪い取る。
「てめーぶっ壊すぞ」
 携帯を開いて折る真似をしていたら、誤って新着メールを開いてしまった。視界にハートの絵文字が大量に飛び込んでくる。
「なんだ、これ」
 人のメールを見るのはルール違反だとわかっていたが、不自然なまでに動くハートをなかったことにはできなかった。
 準太は携帯を顔の前に持ってくる。
「この間はありがとう。また相談に乗ってね、ハート。ハートが五個もある」
 利央は慌てて携帯をひったくると、乱暴にポケットにしまった。準太は相手の胸を押し戻し、少し距離を置いて座る。
「ほー。仲沢君はたいそう女の子に人気なわけだ」
 喉の奥から低い声が漏れる。利央はばつが悪そうな表情を浮かべた。
「別になんでもないです」
「なんでもないのにハートが五個もつくわけねぇ」
 五個、というのは問題ではない。問題はハートなのだが、準太はことさら五個を強調した。
「っていうか、準さん。嫉妬してるんですか?」
 それはタブーだった。プライドの高い準太にとって、そのひと言は禁句以外のなにものでもない。
「誰がてめーなんかに。ふざけんな」
 聞こえよがしに舌打ちすると、立ち上がって玄関の方角を指差す。
「もう帰れ」
「待って。本当に彼女とは」
「はいはい。わかったからさっさと帰れ。オレは疲れてんだよ」
 もう寝る、と言い放って寝室へ向かった。ここは冷静に話を聞くのが正しいとわかっているのだが、プライドが邪魔してうまくいかない。なによりも本人が思っている以上に動揺しているのが原因だった。
 誰がこんなガキ、と口では言いながらも、いつの間にか自分の方が利央を想っているような気がして、冷静でいられなくなっている。側にいるのが当たり前で、いつまでもそんな日が続くと無条件に信じていた。頭のどこかで人の心は変わるとわかっていても、それを認めるのが悔しいのだ。
 口では悪態をつきながらも、抱きしめられると心の底の方では安堵している。言葉にする代わりにぎゅっと抱きしめ返すと、なんとも言えない嬉しそうな顔で利央は笑った。
 いつかの誰かの言葉を借りるとすれば「こんなにかわいいやつを好きにならないはずがない」といったところだろうか。もちろんそれを告げたことなどなかった。無駄にプライドが高いのは準太の専売特許だ。
 しばらくして扉が閉まる音がした。利央が帰ったのだろう。準太は頭から布団をかぶって持て余した苛立ちをおさめようと深呼吸した。
 後悔するのはいつものこと。
 どうしてほんの少しでいいから優しくできないのだろうか。
 気がつくのはいつもひとりきりになったときだけだ。


 授業中、目が合ったのに気まずそうにそらされた。それは準太にとって肯定の意味にしか見えなかった。ハート五個の女子生徒と利央はうまくいっているのだろう。
 みっともなく取り乱して引き止めれば戻ってくるかもしれないが、無論彼にそんなことができるはずもない。
 いっそ利央がいいならそれもいいかもしれないと思い始めていた。最初に仕掛けたのは向こうだったが、それに乗ると決めたのは準太自身だ。誰のせいでもない。
「しょうがねぇ」
 納得しようと小さく声を漏らし、深く頷いてから赤ペンのキャップをはずす。
 ただ、以前の生活に戻るだけだ。
 そこでふと解答用紙に丸をつけようとした手が止まった。以前の生活って、どんなだっけ。思い出そうとしても思い出せない。淡々と過ごしていた日々は、最近の目まぐるしい毎日に上書きされてしまった。思わぬ事態に苦笑するしかない。
 始まりは唐突で、ただ驚くばかりだった。次に訪れたのは苛立ちだった。今は取り巻くものに愛しささえ覚えた。
 深いため息で思考を切ると、気分転換でもしようと席を立つ。こういうときは飲み物でも飲んで、それから煙草を吸って、それから。胸のうちでこれからの予定を立ててみる。
 階段を下り、まず最初の目的地である自動販売機を目指す。以前河合が疲れているときは甘いものを、と言っていたのを思い出し、いちご牛乳を買おうと決めた。
 自動販売機の前のベンチにはテニスウェアを着た女子生徒と、野球部のユニフォーム姿の男子生徒が腰掛けていた。部活動の休憩中なのだろうか、青春真っ只中のカップルに微笑ましい気分になる。
 本来これが正しい姿なのかもしれない、不意に利央の顔がちらつく。ちょっとばかり道を踏み外してしまったが、これからは普通の学生生活を送るだけだ。そう結論づけると歩調を速くして自動販売機の前に辿り着いた。
「あ、高瀬先生」
 カップルの方を向かないように注意していちご牛乳のボタンを押したが、向こうから声をかけられた。甲高い声に名前を呼ばれ、渋々振り返る。女子生徒は笑顔で手を振っていた。
 苦笑しながら少女の隣りに視線を移動させた準太は目を見張った。野球部のユニフォームを着ていたのは利央だった。帽子をかぶっていたので気がつかなかったが、目の前にいるのは彼の心を乱す張本人だ。女子生徒は利央と同じクラスだったような気がする。動揺して記憶が曖昧になっている。
「部活、頑張れよ」
 当たり障りのない言葉を投げかけて早々と立ち去ることにした。これ以上見せつけられても笑うしかない。
 ついさっきそれでもいいと納得したはずだったのに、心は重くなるばかりだ。大丈夫、と呟いて、何が大丈夫なのかと自問する。いつの間にか握りしめていたいちご牛乳の紙パックは、いびつな形に変形している。
 自嘲気味に笑うと、それをスーツのポケットに押し込んでさらに歩調を速めた。とにかく一息つこう、とひとりきりになれる場所を探す。ついでに煙草を吸おうと決め、自分の車が置いてある職員専用の駐車場へ急いだ。スーツのポケットから鍵を取り出してロックを解除すると、急いで扉に手をかける。
「準さん!」
 乗り込もうとした瞬間に大声に呼び止められ、思わず周囲を確認した。校舎の裏に位置しているため人通りはあまりないとはいえ、誰に見られているかわからない。確認した限りでは誰の姿も見えなかったが、念のために声を潜めて鋭く言い放つ。
「声がでかい」
「でも、準さん」
「とにかくお前も乗れ」
 こんなところで口論していては洒落にならない。焦った準太は顎をしゃくって促した。利央は唇を引き結んで助手席のドアに手をかける。
 ひとまず車内ならばさっきの状況よりも安心だ。
「ちょっと出すぞ」
 ただし完全に安心というわけではない。周囲を警戒しながら車を発進させ、一番安全と思える自宅へ走らせた。少々乱暴な運転で自宅に到着すると、利央の尻を蹴飛ばして玄関に押し込んだ。
「利央」
 低い声で呼びかけると、利央の体がわずかに跳ねた。
「あんなとこででかい声出すな」
「すいません……」
 珍しく殊勝な態度である。訝しく思いながらも続けた。
「で、なに」
 玄関のドアに寄りかかったまま腕組みをして尋ねる。睨みつけると利央はますますうなだれた。
「誤解したと、思って」
「誤解? なにが」
 おそらくテニスウェアを着た女子生徒がハート五個の相手だろう。準太は目を細めてじっと利央の言葉を待った。
「あの子はオレの友達の彼女で。喧嘩してたのを仲直りさせたお礼にジュースおごってもらってただけで」
「へぇ」
「オレが好きなのは準さんだけです」
 その言葉に体が痺れた気がした。
 この言葉を言わせたくて、この言葉が聞きたくて、ただそれだけだったのだと気づく。
 準太の口元は知らぬ間に笑みを浮かべていた。
「でも嬉しいな」
「ん?」
「だって嫉妬してくれたってことは、やっとオレのこと好きになったってことだから」
「いや、誰もそんなことは」
 言っていないだけで、一目瞭然だった。
 つい数秒前までは優位な立場にあったはずが、いつの間にか逆転している。なにかがおかしいと首を傾げていると、当然のように抱きつかれた。
「おまっ、調子に乗んな」
「大丈夫ですよ。準さん以外にこんなことしませんから」
「聞いてねぇ」
 口ではそう言いながらも、どうしようもなく嬉しくてたまらない。寄せられた頬を拒むふりだけしながらさりげなく背中に腕を回した。
 今日だけだ、今日だけ。
「準さんもオレ以外にこんなことしないでくださいよ」
 返事はしない。
 それはわかっていたのか、利央はドアに準太の背中を押しつけてぐっと顔を寄せた。目の前には悔しそうに唇を噛んで精一杯の抵抗を見せている準太の顔がある。顔をそむけているが、耳まで真っ赤だ。その顔が口以上に気持ちを伝えているのに気がついていないらしい。
 利央はたまらず顎をつかんで自分の方を向かせた。反論をしようと目を見開いた準太の下唇を舌でなぞると、途端におとなしくなる。おとなしくなったのを見計らって額を合わせると、両手で頬を包んで微笑した。
「準さんが好きです」
 どうしてもそう言いたくて丁寧に言葉にした。返事は期待していない。
「……も、たぶん」
 期待していなかったが、か細い返答が返ってきて面食らった。うっかりしていると聞き逃してしまいそうなくらい小さな声だったが、慌てて確認した表情だけで十分だった。
 たったひと言だというのに、それだけで有頂天になってしまう。利央は破顔して、目の前の真っ赤になった顔を指先で撫でた。
 準太は今にも破れそうな心臓を心配して胸を押さえている。
「一生聞けないと思ってた」
「うるせぇ」
 一生、という言葉が準太の心をくすぐる。絶対という約束はなにもないけれど、小さな約束をひとつずつ積み重ねればそれが永遠になるかもしれない。
 そんなことを考えていた。

BACK INDEX