この人でなければならないという、強い感情はまだよくわからなかったが、一緒にいると楽しいと感じてしまうこの感情の名前を、誰か教えて欲しい。
最近静かだ、準太は次の授業で使う資料を睨みつけながら短い息を吐いた。指先ではずっとボールペンを回している。
静かな原因はたったひとつ。これまでしつこいくらいに付きまとっていた利央がぱったり姿を現さなくなったからだ。
そうはいっても週に何回かは授業で彼のクラスに行くのだが、少年の顔ははいつも窓の外に向けられていて、これまで幾度となく自己主張をしてきた視線はすっかり違う場所を見つめていた。
「別に、ちょっと気になるだけで」
心のどこかで、利央は無条件に自分を想っているものだと思い込んでいた。いくら拒絶しても好きだとぶつけてくる相手が、ちょっとやそっとで心変わりするとは思えなかった。
ところが冷たくあしらっても感情を押しつけてくる両腕は、一向に側へやってこない。決して寂しいわけではない、そう自分に言い聞かせてみても、物足りなさを払拭できなかった。
「ありえねぇだろ」
よくなくして初めて大事なものに気づくというが、いままさにそのときなのかもしれない。当たり前だと思っていた日常が大きく変化した瞬間、胸に開いた穴に隙間風が吹きすさぶ。
ひとりでは埋めることのできないそれを、どうしようか。
「どうした? また悩み事か」
頭を抱えて唸っていた彼の元に河合がやってくる。肩に触れられ、力ない笑みを浮かべた。
誰かに聞いてもらえば少しは気が紛れるかもしれない、そう思い眉を下げて河合を見上げると、彼はたくましい胸を叩いて顎をしゃくった。
河合が準太を連れ出したのは野球部の部室だった。ちょうどお互い空き時間だったが、授業中であるため生徒達の姿はどこにもなく、周囲は静まり返っていた。時折遠くから微かに、体育の授業中なのか、ホイッスルの音が聞こえてくる。
部室のベンチに腰掛けると、ここへやってくる途中に自動販売機で買った烏龍茶の紙パックにストローを突き刺した。河合の手にはいちご牛乳が握られている。
「で、どうした」
河合の言葉はいつも気遣わしげだ。高校時代にバッテリーを組んでいるときからそうだった。気遣わしげなのだが、決して回りくどくはない。あくまでも相手を立てるような気の遣い方は、投球の組み立て方にも表れていた。
河合の変わらぬ心遣いに安堵すると、準太は深呼吸をひとつしてから口を開く。
「こ、これはあくまでも知り合いの話なんですが」
「お? おう」
自分の話と言うには、いくら相手が河合とはいえ羞恥に勝てない。だいたいこういう言い回しをするときは自らの話というのがセオリーなのだが、あえて突っ込まないのが大人の気遣いである。
河合は続きを視線で促した。
「好きでもなんでもない相手に、しつこく付きまとわれてるらしいんですよ。で、いくら興味ない態度をとっても全然気にしてなくて、好き好き平気で言ってくるような変なやつなんです。しかもそいつといると苛々、むかむかして。しまいには近づいてくると妙に身構えたり、かといって何のアクションもないと驚いたり。しかもそれだけしつこく付きまとってきてたくせに、そいついきなり姿見せなくなって、それで」
どうすればより的確に相手に伝わるのか、そう考えているのに拙い説明になってしまう。そんな彼の話を黙って聞いていた河合は、とうとう堪えきれずに吹き出した。笑われた当人は憤慨して顔を真っ赤にしている。
「笑い事じゃないっすよ」
「あー悪い。そうだよな、うん」
本当にわかっているのか問い詰めてやりたかったが、墓穴を掘りそうなのでやめておく。
河合は腹に手を当てて体を揺らしながら笑い始めた。なにがそんなにおかしいのか、だんだん苛立ってくる。むっとした表情に気がついたのか、河合は慌てて笑いを引っ込めた。
「いや、悪い悪い。別におかしくて笑ってるわけじゃないんだ」
「じゃあなんでです?」
「とりあえずお前からその知り合いに伝えてくれよ」
「はぁ」
「それはすでに相手のことが好きになってるってことだって」
「どういうことですか」
すかさず突っ込んでしまう。河合の言うことが正論だとするならば、準太の言葉は冒頭から否定されることになる。好きでもなんでもない相手、なのが前提なのだ。
腑に落ちない様子で河合を見ていると、河合は苦笑しながら準太の肩に触れた。
「最初はなんとも思ってなくても、そのうちなんとなく好きになるってこともありじゃないか?」
「まぁ、それはそうですけど」
やはりまだ納得できないらしい。言葉尻に棘がある。
「興味ないから好きかもしれないになって、いつか大好きになるかもしれない。な? 最初から否定するのは良くないな。お前だって最初から打たれると思って球投げたりしないだろ」
「それは……はい」
野球にたとえられると反論できなくなってしまう。すっかり萎れた心は、突きつけられたひとつの結論にうろたえていた。
誰が、誰を、好きだって。
胸の内で何度もその言葉を反芻する。
心境の変化があったのが一体いつか、と自問しても明確な答えは出てこない上、それを認めるのもまだ少しばかり抵抗がある。相手が同性だからか、それとも生徒だからか、並べれば並べるほど言い訳くさくなる。突き放すならばいくらでも言い訳があるのに、準太の心は誰かの不在を寂しく思っていた。
触れられると驚き、それと同じくらいくすぐったい気分になる。誰かにこれほどまでに存在を欲されたことがあっただろうか。そう思うとやはり同じところに行き着いてしまう。
「オレ、決め球は変化球なんだけどな」
ひとりごちると、重い腰をゆっくり上げた。
この奇妙な緊張感は、高校二年生のときの夏大会に匹敵するかもしれない。準太は生徒指導室で手のひらに滲む汗を落ち着きなく振りながら、利央がくるのを待っていた。
来ないのならこちらから呼び出せばいい、そう結論づけた彼は堂々と校内放送で利央を生徒指導室に呼び出した。来るか来ないかは今のところ五分である。心のどこかで、利央が自分の呼び出しなら来ないはずがないと思ってはいたが。
生徒指導室は職員室の正面に位置していたが、めったに使われることのない部屋である。時折廊下を歩く生徒達のはしゃいだ声が聞こえたが、緊張している準太にとって、それはただの雑音に過ぎなかった。
時計を見ると昼休みはあと十分ほどで終わってしまう。やはり避けられているのだろうか、理由は思い当たるようなわからないような。もしかしたら冷たくあしらわれすぎてあきらめてしまったか。それとも若さゆえの一時的な熱病みたいな感情だったのか。
ひとりきりでいるとよからぬ考えに支配されてしまいそうになる。気分を変えようと窓際に立つと、冴えない曇天を見上げた。雨が降りそうで降らない今の天気は、まさに彼の心境のようである。煮えきらない悶々とした感情に乗っ取られ、自分が自分ではないような気持ちになる。
これまでこれほど感情を揺さぶられた相手は思い出せない。なかった、と言ってもいいかもしれない。
好きなのか、と聞かれるとまだ「わからない」というのが本音だったが、この先好きにならないかと問われるとそれも「わからない」だ。
一歩踏み出してみなくてはなにもかもわからない。
しきりに時計を気にしていると、不意に扉が乱暴に開いた。準太は窓に寄りかかったまま苦笑している。まずなんと声をかける予定だったか、扉の開く音ですべて忘れてしまった。利央は息を切らしてすぐ側までやってくる。
「遅い」
「す、いま、せん」
腕組みをしたまま冷たく告げると、利央は肩で息をしながら途切れ途切れに詫びた。呼吸を整えている少年を一瞥すると、目を細めて顎を上げる。
「どうかしたのか?」
「はい?」
「その、最近来ないから。ほら、前はうざいくらい付きまとってきたくせに」
あくまでも平静を装ってことさらゆっくりと言葉を吐き出す。てっきり謝られると思っていたが、利央はただ目を白黒させてじっと準太を見つめるばかりで、口を開く気配はない。じれったくなって準太は乱暴に続けた。
「別にどうでもいいけどな。でも、心配するだろうが」
心配って、なにをだろう。自分の言葉が自分でも理解できなくなってきている。
「心配、じゃねぇな。とにかく。人のことあれだけ好きだって言っといて、いまさら冗談だとか抜かすなよ」
もはやどつぼにはまっている。しかし本人は必死でそれに気がついていない。
違和感を感じつつも羞恥をごまかす方に神経を注いでいた。冷静になれば立派な大告白をしているのだとわかるだろうが。
「寂しかったんですか? オレが会いに来なくて」
「あ? 誰がそんな。ふざけんな」
「てっきり嫌われてると思ってたのに」
「別に……嫌いとは言ってねぇ」
「嬉しいです」
夢見心地の表情で伸ばされた手をよけようとしたが、一拍遅れてつかまった。本当に逃げる気があったのかは本人にもわからない。
伸びてきた両腕はやや乱暴に準太を抱きすくめると、力任せに締めつけた。逃げ出すことを許さないと言わんばかりのそれに準太は眉根を寄せる。
「いてぇ」
「緩めたら逃げるでしょう?」
「逃げねぇよ」
その言葉を信じて利央は少しだけ腕を緩めた。宣言通り、準太は逃げない。
「好きになって、くれました?」
準太は聞こえないふりをして押し黙る。利央はわざとらしく、今度は耳元で同じ台詞を口にした。
「わからん」
「本当はわかってるんですよね?」
真っ赤になった耳たぶに唇で触れられ、準太は歯軋りした。逃げないと宣言したが、身の危険を感じて抜け出そうと試みる。無論かなわないことだった。
「逃げないんでしょう」
「妙なことしたらぶっころす」
「はーい」
呑気な返事が癇に障るが、このまま喧嘩をしていても埒があかない。とにかくまずは一歩踏み出そうと胸の内で決意し、顔を上げた。至近距離にある相手の顔に一瞬焦ったが、歯を食いしばって堪える。
「今はわからねぇけど。この先好きになるかも、しれないような気がするんだよ。文句あるか」
「ないっす。ぜーんぜん」
「とにかく、そういうことだから。よろしく、以上」
これ以上近くに利央の顔があると気が狂いそうだった。なんとか腕から逃げ出そうともがいたが、満面の笑みを浮かべた相手に阻まれる。
「ここでお預けって、鬼ですか?」
「知るか。なに言ってんだ、お前。もう授業始まるから、教室戻れクソガキ」
「はーいはい。じゃあ、あとで」
額に軽く唇で触れられる。準太はそこを押さえて憤慨した。
「てめっ、なにすんだよ」
まったく意に介さず手を振って利央が部屋を出て行く。後ろ姿をずっと睨みつけていたが効果はなかった。
準太は額を手の甲で擦りながら窓に寄りかかる。
「あのクソガキ……」
吐き出した言葉はなぜか熱っぽかった。自分が思っている以上に利央が心を占めているらしい。
けれど負けっぱなしというのは癪なので、絶対口にしないと誓った。
一緒にいると楽しかったり驚いたり、ときどき息が苦しくなったり。その全部がお前のせいなんだから、お前が責任とりやがれ。
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