versus #4


 どうしてもこの人でなければならないという、強い想いを抱いたことはこれまでない。
 それなりに年齢を重ねているので、それなりに恋愛の経験もある。けれど他人に対する執着はほとんどなく、どちらかといえばひとりでいることの方が好きだ。
 ひとり暮らしを始めた理由もそこにある。誰かに気を遣ったりするのはあまり得意ではない。ひとりでのんびり自由気ままに暮らしたかったというのに、ある瞬間を境に世界は百八十度変化した。
「じゅーんさーん」
「忙しい」
「冷たいー」
「うるさい」
 背後からまとわりつこうと伸びてきた手をするりとかわす。
 これまでいちいち動揺していたからうっかり侵入を許してしまっていただけで、冷静に対処すればなんということはない。
 現在必死で平静を装いながら、河合に頼まれた社会科準備室を掃除中である。年内に整理しておくよう先輩教師に頼まれたらしいが、部活動に時間のほとんどを割いている彼に頼みこまれて渋々引き受けたのだった。運動部は特に縦の関係が厳しいため、どうしても河合の頼みごとを断りきれないらしい。
 面倒なことは早急に片付けてしまおうと意気込んで清掃を開始してからいつの間にか三時間。すっかり窓の外は日が暮れ、いびつな形の月が浮かんでいた。腕時計で時間を確認したが、それほど遅い時間ではない。今日はこの辺りで切り上げようと腰を叩いていたところへ利央が飛び込んできたのだった。誰にこの場所を聞いたのかは問うまでもない。
「一緒に帰りましょう」
「断る」
 なるべく相手の顔を見ないように冷たい言葉を投げつける。顔を見てしまったら怯んでしまいそうだからだ。そう思っている時点で半分負けが確定していることをまだ彼は知らない。
「どうしてですか?」
「つーかなんでオレがお前と一緒に帰らないとなんないわけ」
「好きだからです」
 まともに直球を食らって吹き出してしまう。せっかくここまで動揺を隠し通してきたというのに、両手に抱えていた資料を足元にばらまいてしまった。
「わっ」
 ホッチキスで角をとめられた紙が辺りに散らばる。拾い上げようと振り返ると、目の前に利央の笑顔が迫っていた。慌てて相手から離れようと後退したが、背中が棚にぶつかって本がなだれる。
「いてっ」
 頭に本の角がぶつかった。痛みに片目を瞑って耐えていると、正面から手が伸びてきた。その手は痛みに疼く頭に乗せられる。
「大丈夫っすか?」
「誰のせいだと」
 痛みのせいで涙がまなじりから零れた。ずきずきと疼く頭に乗せられた手を払いのけると、歯を食いしばってじっと痛みに耐える。
「痛い、ですよね」
「むちゃくちゃな」
「ごめんなさい」
「別にいいよ、もう」
 ついさっきまではお前のせいだとなじってやろうと意気込んでいた準太だったが、肩を落としてひどく落ち込んだ様子の少年を前にすると、言葉はすべて腹の底に戻っていった。
「とりあえず、落ちた紙拾うの手伝え。それで許してやる」
「はいっ!」
 この甘さが仇になっているのは百も承知だった。けれどなんだか妙におかしくなってきて笑っている準太がいた。
 苛々させられたり、笑わされたり、利央と一緒にいると目まぐるしく感情を揺さぶられる。


「だからいいって」
「ダメです! どうしてもお礼したいんです」
「別にいいっつってんだろ」
 車内ではもうすでに五分ほど押し問答が続いていた。内容は実に些細なことである。この間風邪をひいたときに卵粥を作ってくれたお礼に、今日の夕食を作りたいという申し出だった。準太は無論にべもなく断ったのだが、それでは気が済まないと必死で利央が食い下がり、もうずっと同じやり取りを続けている。
「どうしてもお礼したいんです。ダメですか?」
 出た、と内心で悪態をついた。この言葉を発するときの利央の目は小動物のようで、大きな体にひどく不釣合いに映る。断ったら傷つけてしまいそうな気がして結局折れてしまうのだ。
「あーもう。好きにしろ」
「やった。オレ頑張りますね」
 不覚にも綻んだ顔に息が詰まってしまう。
 自分の言葉にいちいち一喜一憂する少年は、これまで出会ったことのないタイプの人間だった。素直で真っ直ぐで嘘のない表情と言葉は、そのまま準太の胸に突き立てられる。ゆっくりとそれは沈み込み、彼の胸をむちゃくちゃにかき回した。
 買い物を済ませて家に帰る途中も利央は終始ご機嫌で、楽しみにしててくださいねと満面の笑みを浮かべた。その姿を見ているとだんだん怒っているのが馬鹿らしくなってきて、代わりに苦笑が漏れる。自分といて何がそんなに楽しいのかは理解できなかったが、相手が嬉しそうなのは純粋に嬉しく思えた。
「物好きなやつ」
「なんですか?」
「別に」
 首を傾げながらも笑っている。今日は好きなようにさせておくことにした。
「ちょっと薄いかも」
 ローテーブルに置いたカレーを咀嚼しながら利央は首を捻った。料理があまり得意ではないと言い訳しながらも一生懸命にカレーを作っていた彼は、途中手伝いを申し出た準太をソファに押さえつけて鍋と格闘していた。何度も味見を繰り返すたびになんだかんだとぶつぶつ言いながら味を調えていたようだが、結局納得のいく味には仕上がらなかったらしい。
「すいません」
 しゅんとした様子の利央を一瞥すると、準太もひと口口の中に押し込む。確かに味は薄かったが、あれだけ一生懸命頑張っていた姿を否定することなどできない。
「そうでもないけど?」
 飲み込むとすぐに二口目をスプーンで掬った。利央の視線が不安げに見つめている。
「なに」
「準さん無理してません?」
「してねぇよ」
「本当に?」
「してねぇって、しつこい」
 ようやく安心したのか、目尻を下げてほっとしたように胸を撫で下ろしている。何気なくその表情を眺めていると、利央が眉を下げて苦笑した。
「準さんって天然なのか鬼なのか」
「はぁ?」
「そんな顔で見られたら期待するじゃないっすか」
「どんな顔だよ」
「むかつくから教えてあげません」
「わけわかんねー」
 急に心拍数が跳ね上がったのを隠そうとぶっきらぼうに言い放つ。目の前の相手は彼の言葉に一喜一憂するが、準太自身は目の前の相手の一挙一動にいちいち心を乱されてしまう。そのたびに苛立ちを持て余して前髪を引っつかんだ。
 この苛立ちに名前をつけることができれば少しはましになるだろうか。そんなことを考えながら、空になった皿を頬杖をついて睨みつけた。
「口の端にカレーついてますよ」
 伸びてきた手をよけて乱暴に手の甲で口元を拭った。
「お前今、指で取って舐めようなんて考えてただろ」
「あ、ばれました? 残念」
 そんなことをされてたまるものか、準太はのけぞったまま鼻で笑った。
「てめーの考えてることくらいわかるっつーの」
「じゃあ、オレが今なに考えてるかわかります?」
「どうせろくでもないことだろ」
「準さんのことですよ」
「なっ。くだらねぇこと考えてないで食ったらとっとと帰れ」
「くだらなくなんかないですよ。準さんのことだから」
「うるさい。いいから早く食えって」
「好きです」
「あー! なんにも聞こえねぇ!」
 耳に両手を押し当てて大声を上げた。ささやかな抵抗だったが、利央はその様子を見て口元を綻ばせる。
「聞こえるまで何回でも言ってあげましょうか」
「いらん」
「あ、聞こえてる」
 すっかり相手のペースに巻き込まれしどろもどろになる。押さえた耳ははっきりわかるほど熱を持ち、ほてった顔をごまかそうと手であおいでみたがまったく追いつかない。これではどちらが年上なのかわからなかった。
「だいたいなんでオレなんだよ。わけわかんねぇ」
 いくら否定しても利央の気持ちが変わることはなさそうだと判断した準太は、半ば観念したようにぼそぼそと呟いた。今にも消え入りそうな弱々しい声に利央がくすりと笑う。
「こんなにかわいい人、好きにならないはずがないっていうか」
「嬉しくねぇ」
 かわいいと言われても微塵も嬉しくない。しかし利央は言い聞かせるように「かわいいですよ」と柔らかい口調で告げた。おかげで静まりかけた鼓動がまた速くなる。
「ば、馬鹿にすんな。ガキのくせに」
「馬鹿になんかしてないです。そういう天邪鬼なところもかわいいと思いますけど?」
「はっ、おまっ。マジで意味不明」
 現代文を教えている身でありながら、肝心なところで何ひとつうまい言葉が見つからない。ただストレートな愛情表現に振り回されるばかりで、気がつけば完全に押されている。どうにかして形勢逆転しようと必死で考えこんだが、いい作戦は何ひとつ浮かんでこなかった。
 額を押さえて唸っているとテーブルに影が落ちた。触れられると思って慌てて身構えたが、気配はすぐに背後に消えた。
 不思議に思って顔を上げると、正面には誰もいない。首を捻って後ろを見ると、キッチンに食べ終えた食器を運ぶ利央の背中が映った。利央は食器を置いて振り返ると、わずかに悲しさを孕んだ声で言った。
「そんなに警戒しなくても大丈夫です。準さんが嫌がるなら、もう無理矢理触ったりしません」
「そ、そうか」
 言った瞬間準太は眉を寄せた。自分の発した声がどこか落胆の色を滲ませているように聞こえたからだ。実際そうだったのかもしれない、利央は困り果てた表情で首をしきりに撫でている。
「だーかーらー。そういうの反則ですって」
「……っ」
 認めたくはなかったが、今のはあきらかに本人も認めざるを得ない声音だった。
 そうはいっても素直ではないのが高瀬準太である。たとえ理不尽でも強引でも、まだ降参するわけにはいかない。根拠はない。
「言っとくけどな、オレはてめーなんかなんとも思ってねぇんだよ。ばーか」
 もはやどちらがガキか、謎である。
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