「なにやってんの、お前」
闇の中で膝を抱えた少年に準太は冷ややかな声をかけた。もっともそんな攻撃に怯むような相手ではなく、利央は顔を上げて口元を綻ばせる。
「やっと来た」
心の底から嬉しそうな顔をされ、準太は喉の奥から湧いてきた冷たい言葉を飲み込んでしまう。
仕事を終えて帰宅しようとしていた準太の車の脇で膝を抱えていた利央は、すっかり冷たくなった両手を擦り合わせていた。まだ微かに夏の名残を残した季節だったが、日が暮れたあとは随分冷えるようになった。どれくらいの時間そうしていたのかはわからなかったが、利央の体は小刻みに震えている。準太はため息を零してからがっくりうなだれた。
何かが、おかしい。
「なんで待ってんだよ」
「一緒に帰ろうと思って」
「だから。なんでオレとお前が一緒に帰ることになってんのかって。部活はとっくに終わってんだろ、さっさと帰れ」
「一緒に帰りたいんです。ダメですか?」
どうやらこの「ダメですか」に弱いらしい。そう言うときの利央はしょんぼりしているように見えて、どうしても邪険にできない。そこをうまく突かれているような気がしないでもなかったが、結局準太の答えは決まっていた。
「好きにすれば」
乗れと言うのは癪だ。微かな抵抗のつもりでそう言うと、利央は満面の笑みを浮かべて助手席に乗り込んだ。
「準さんっていつもこんなに遅くまで仕事してるんですか?」
「まぁ、いろいろあんだよ。大人の事情」
どこのクラスに行っても授業中の生徒の態度は同じだ。ほとんどの生徒が自分の話など聞いていない。ただ板書された文字を写すだけで、退屈そうな表情が教室中を埋め尽くしている。
特に現代文に興味を持って欲しいという情熱があるわけではなかったが、せめて存在だけは認めて欲しい気がした。まるでそこに誰も居ないように振舞われては虚しいばかりだ。
そのために少しでも興味を惹くような授業にしようと試行錯誤しているが、なかなか思うようにいかない。それに少しずつ疲れ始めていた。弱った心はどんどん深みにはまっていく。
「なんか疲れてます? 無理しない方がいいですよ」
「近い」
覗き込んできた顔を左手で押し戻す。相手は前科持ちである。ネクタイと利央の右手に注意を払いながらエンジンをかけた。
「でも、顔赤いですよ。具合悪いんじゃないっすか」
確かめようと伸びてきた手を反射的にはたいた。はっとして隣りを見ると予想通りの落ち込んだ表情が映った。準太はこの表情にすぐ降参してしまう。
「あ、いや……大丈夫だから」
ここはあくまでも線をきっちり引こう。そう自らを納得させる。隣りがひどく落ち込んでいる気配を感じたが、気づかないふりをした。
そこでふと違和感を感じる。心配している利央の呼吸の方がずっと不自然だ。準太の顔が赤かったのは近づいてきた顔に焦っただけだったが、隣りは息苦しさを必死でごまかしているように見えた。時折窓に向かって深呼吸をしている利央を横目で観察し、渋々切り出す。
「つーかお前の方がよっぽど具合悪そうなんだけど」
「え……」
なぜかその指摘に利央は笑みを浮かべた。
「そこ、笑うところじゃなくね?」
「嬉しくて」
「なにが」
「だって、準さんが気づいてくれたから」
「先生、だろうが」
その指摘はいまさらだった。いくら注意しても一向に気にする様子のない相手である。しかもその名で呼ぶのはこうして二人きりになったときだけだった。だんだんそれに慣れて訂正するのを忘れている。今は羞恥に負けないようにあえてそう口にした。
「あんなとこに座ってるから風邪ひくんだよ」
嫌味のつもりで言ったのだが、利央は笑顔で流してしまった。
「準さんに会いたかったから」
「授業で会ったろ」
ため息まじりに言い放つと、隣りは照れくさそうに笑った。
「好きだから会いたいって思うの、ダメですか?」
また「ダメですか」攻撃だ。わかっているのに準太は口ごもってしまう。
「ダメとは、言ってねぇけど」
つい流されてしまいそうになる自分を引き戻そうと前髪をつかんだ。利央といるとすっかりペースを乱されてしまう。真っ直ぐな好意をぶつけられてひとり勝手に戸惑い、純粋な双眸に負けて冷たくあしらうこともできない。
逡巡している心を叩くように、真っ暗な空から雨粒が落ちてくる。夜から雨が降ると天気予報で言っていたことを思い出し、小さく舌打ちした。
この先の角を左に曲がれば利央の家はもうすぐだ。隣りで苦しそうに呼吸している少年を一瞥すると、正面を向いたまま口を開いた。
「もうすぐ着くから、もう少し辛抱しろ」
「なんか嬉しいな。準さんがこんなに優しいなら、毎日風邪ひいてたいかも」
「ふざけんな」
乱暴に返答すると荒い運転で左折する。助手席から小さな悲鳴が聞こえた。
辿り着いた利央の家はどの部屋も真っ暗だった。
「誰も居ないのか?」
就寝するにしてはまだ早い時間である。腕時計を見て助手席に言葉をかけると、弱々しい返答が返ってきた。
「今日は家族みんな用事で帰ってこないんです」
利央は大丈夫です、と言ってドアを開けようとする。よほど我慢していたのか、よく見れば滲んだ汗で額に前髪が貼りついている。
今度は準太が利央のネクタイに手を伸ばす。あくまでも引き止めるためだったが。
「へ?」
情けない声が利央の唇から漏れた。準太は聞こえよがしに舌打ちすると、一気に捲くし立てる。
「ガキが強がんな。その調子じゃ薬も飲まないで寝るつもりだろ」
もう少し言いようがあっただろうが、頭に血が上って乱暴な口調になってしまう。
「さっさとシートベルト」
自分で吐き出した言葉だが、無性にこっぱずかしい気分になった。具合が悪い生徒をひとりきりで放っておくのは忍びないだけだ、なんども言い聞かせて自宅へ車を走らせる。
「待ってろ、着替え持ってきてやる」
息苦しさに顔をしかめながらネクタイを緩める利央を自宅に押し込むと、そそくさと寝室へ向かう。クローゼットから急いで着替えを取り出すと、ぼんやりリビングのソファに座っている利央めがけて投げつけた。
「とりあえずそれに着替えて来い。サイズが合わないって苦情は受け付けん」
明かりの下で見ると、利央の頬ははっきりわかるほど赤くなっていた。おまけに咳き込み始めている。
力ない笑みを浮かべてその場でブレザーのボタンをはずし始めた利央。準太は慌てて突っ込んだ。
「おまっ、向こうに洗面所あるから。ここで脱ぐな」
「めんどくさいからここでいいです」
「そういう問題じゃ」
そこまで言って言葉を止めた。よく考えてみれば相手は同性だ。別に裸を見たくらいで動じることもないはずである。基本的に自分と同じ構造をしているのだから。ところがどういうわけか、どうにも気まずい気分になってしまう。
「もしかして照れてるんすか?」
「はっ、んなわけねぇだろ。いいからさっさと着替えろ」
すっかりペースを乱されて乱暴な調子になってしまう。普段の準太はほとんど声を荒げたりしない、どちらかといえば温和な性格だったが、相手が利央だとどうしても調子が狂ってしまうのだ。
苛々をおさめようと昨日買った煙草のソフトケースをシャツの胸ポケットから取り出す。これまでスポーツをしていたため煙草を口にしたことはあまりなかったが、昨日は感情の持って行き場に困ってとうとう手を伸ばしてしまった。職場の同僚が一本吸うと結構落ち着くと言ってたのを思い出したらしい。
試しにタール一ミリグラムのものを買ってみたが、おいしいかと聞かれれば首を傾げてしまうような味である。
一本くわえて抜き取ると、慣れない動作で火をつけた。
「煙草」
「たまにな」
利央は意外だと視線で告げた。準太は苦笑しながら換気扇の方へ歩いていく。そのまま振り返らずに続けた。
「向こうの部屋のベッドに寝とけ。飯できたら持ってってやる」
「どうも」
すぐに扉が開く音がした。準太は煙を換気扇に向かって吐きながら、空いた手を首の後ろに当てる。
「何やってんだ」
自嘲気味の台詞は轟音にかき消される。
一体何をやっているのか、いかなる事情があろうとも自分に好意を抱いている人間に期待を持たせるような真似をしたのは、浅慮だったかもしれないといまさら思い至った。
さして吸わないうちに煙草を揉み消すと、ソファの上に脱ぎ散らかされた制服をたたんだ。シャツは浴室の脇に置かれた洗濯機の中に放り込む。
ふっと一息ついてから、上着の袖を捲り上げて食事の支度にかかることにする。一人暮らしにもそこそこ慣れて簡単な料理には自信があったが、風邪によさそうなものといっても卵粥くらいしか思いつかない。複雑な感情を含んだため息を吐き出すと、戸棚から一人用の土鍋を引っ張り出した。
「こんなもんか」
勘を頼りに仕上げた粥を味見してから小さく頷く。それを慎重にトレイの上に乗せて寝室へ運んだ。
ベッドの脇にあるライトだけをつけてぼんやり天井を見ていた利央は、ようやく到着した夕食に力ない笑みを浮かべた。さっきより熱が上がってきたのか、息苦しそうにしている。
待てと言ったわけではないのに、自分が風邪をひかせてしまったような罪悪感をわずかに感じた。
「飯食ったらすぐ寝ろ」
ライトを台の端に寄せ、空いたスペースにトレイを乗せる。
「熱いからな」
「ありがとうございます」
上半身を起こしてれんげに手を伸ばしかけたのを見てから、準太は退室しようと背中を向ける。
「あ」
その背中を短い声が呼び止めた。立ち止まって振り返ると、すがるような双眸がじっと彼を見つめている。準太は視線で「どうした」と問いかけた。
「もうちょっと、ここにいてもらえませんか」
「飯くらいひとりで食えるだろ」
「いてくれるだけでいいです。ダメですか?」
「べ、別にいるだけなら」
やはりこの言葉にとことん弱いようである。
押しつけがましくないようで自由を奪う魔法の言葉なのかもしれない。準太は頭をかきながらベッドの縁に腰掛けた。
「食ったらそこの薬飲めよ」
鍋と一緒にトレイに乗せたグラスと錠剤を顎で示した。利央は子供のように弾んだ声で返事する。体調が悪くても空腹だったのか、鍋の中はあっという間に空になった。
「うまかったです」
「そっか」
あまりにも嬉しそうに笑うので、準太はつい手を伸ばして癖毛をくしゃりを撫でてしまう。利央の体がわずかに跳ねた。
「顔真っ赤になってんぞ。熱上がったか?」
利央は肩をすくめたまま硬直している。
「ほら、さっさと薬飲んで横になれ」
髪に触れていた手を引き抜いて立ち上がると、グラスと錠剤を手にとって差し出した。
急いで錠剤を口に放り込むと一気に喉の奥へ流し込んでから、利央は恨めしそうな目で準太を睨みつける。
「準さんのせいです」
「なにが」
「熱が上がったの」
「は? 別にオレは待ってろなんて言ってねぇよ」
「そうじゃなくて……」
利央はわざとらしいため息をついてから、何かを思いついたような表情を浮かべて手招きした。何も考えずに準太は上半身を傾ける。
「なに」
無防備な上半身を筋肉質な腕が抱き寄せる。油断していた体はあっけなく引き寄せられた。
「てめっ」
またしてもあっさりとつかまえられた準太は抵抗しようともがいたが、無駄な努力でしかない。昔そこそこ体を鍛えていたとはいえ、現役には敵わなかった。
「こうやってぎゅーっとしてると治りそうな気がする」
「治るか! 放せ、クソガキ」
「ねぇ、準さん」
「とにかく放せ。話はそれから聞いてやる。頼むから」
懇願したが、腕が解かれる気配はない。とどめとばかりに、耳に寄せられた唇から吐き出される息がくすぐったくて、叫びだしそうだった。身をよじってそれでもあきらめずに抵抗を続けていると、耳元から掠れた声が忍び込んでくる。
「オレを好きになって。お願い」
腕が緩んだ隙に相手の胸を強く押し返して逃れた。罵倒してやろうと大きく息を吸い込んだが、ふと見据えた利央が驚くほど寂しそうに眉を寄せていたため言葉に詰まる。
「もう寝ろ」
他に言葉が見つからず、利央の肩を押して無理矢理ベッドに横にすると、電気を消して足早に部屋を出た。
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