versus #1


 その視線は気がつくといつも同じところにあった。自分をただぼんやりと見ているだけなのだが、どうにも落ち着かない気分にさせられる。高瀬準太はざわつく教室の隅からずっと送られてくる視線を気にしながら板書を続けていた。
 まだ教師になりたての若い彼は、ほとんど自分の話など聞いていない生徒達に深いため息をつく。高校で現代文を教え始めてようやく一年が経ったが、まだまだ威厳という文字とは程遠い位置にいた。ひそひそと話す女子生徒や、携帯電話を机の下でこっそり操作している生徒もちらほら見える。
 自分の授業はそんなにつまらないのだろうか、そう思って内心落ち込んでいると、不意に誰かと視線がぶつかった。相手は教室の隅で頬杖をつきながら、じっと準太を見ていた。
 表情はなく、ただ静かに自分を見つめる視線に一瞬たじろいだ。しかし準太が視線に気づいたことを知ると、頬杖をついていた少年はにっこり笑った。幼い笑顔につられてうっかり笑みを零してしまいそうになるが、小さく頭を振って手にしていた教科書に目を落とす。
 視線の主の名前はなんだったか。ふと気になって名簿を覗きこむ。
 仲沢利央、初めて名前を見たときてっきり女子生徒だと思っていたのだが、返事をしたのは少年だった。準太は次の生徒の名前を呼ぶのも忘れて、じっくり利央を観察してしまった。長身だからか、窮屈そうに背中を丸めて座っており、色素の薄い癖毛に指を差し込んであくびを噛み殺していた。
 利央はいつも授業中ぼんやりとしていたが、常に黒板ではなく準太の姿を追っていた。いつからかは正確にわからなかったが、準太がふと気がつくと、いつもこうして笑みを浮かべた。それが妙に嬉しそうなのでついたじろいでしまう。
 気になるのならば本人に直接尋ねてみればいいと思ってはいるのだが、なんと切り出せばいいのかわからずにいた。
「仲沢? 特に問題あるやつじゃないけどな」
 本人には聞きづらいので、先輩教師である河合和己に尋ねてみた。しかし返答は素っ気なく、逆に訝しがられてしまう。
「何かあったのか?」
 高校時代の先輩でもある河合は新米教師の準太を常に心配しており、どんな小さな悩み事も聞いてくれるよき相談相手である。気遣わしげに覗きこまれ、準太は慌てて首を横に振った。
「あ、いや、別にそういうわけじゃないんですけど」
 この違和感をどう伝えればいいのかわからない。しばらく逡巡したのち「なんでもないです」と言い置いて自分の席に戻った。
 むしろ何もされていないから違和感を感じるのかもしれない。どこにどのように違和感を覚えるのかと尋ねられても明確な答えはなく、ただ奇妙に感じるとしか言いようがなかった。


 ようやく帰り支度が整った頃、窓の外は闇に包まれていた。
 警備の職員に声をかけられ慌てて鞄を脇に抱えると、軽く会釈してから職員用の玄関へ向かう。一雨ごとに肌寒くなっていく季節の空にぽつぽつと星が瞬いていた。コートを羽織るにはまだ少しばかり早いが、風が吹くと思わず体を抱いてしまいそうになる。
 ひとつ息を吐いて職員専用の駐車場へ足早に向かっていると、不意に呼び止められた。
「先生」
 周囲を確認すると、前方から長い影が向かってきていた。闇に紛れて相手が誰なのか一瞬わからなかったが、灯りの下に進み出た瞬間に息を呑んだ。癖毛の少年は「今帰りですか」と尋ねてくる。
「仲沢?」
 確認のために名前を呼んでみた。すると影が揺れる。
 利央は一歩前に進み出て癖毛に指を差し入れた。それは彼の癖なのか、よくその仕草を見かける。
「随分遅いな」
 部活動はとうに終わっている時間だった。利央は野球部に所属しており、かつて準太も同様だった。一年生なので片付けでもしていたのかと思ったが、他の部員はどこにも見当たらず、時間的にも遅すぎる。
 準太は腕時計の時間を外灯で確認してから首を傾げた。けれど利央はまったくそんなことは関係ないとばかりに距離を縮めてくる。
「先生って車でしたっけ?」
「そうだけど」
「だったらうちまで送ってくださいよ」
「なんで」
「いいじゃないっすかー」
 こんなに長く利央と会話をしたのは初めてだった。授業以外で利央に会うことはほとんどなく、これまでそういった機会はないに等しかった。
 ただでさえ生徒になめられていると感じていた準太は馴れ馴れしい態度に眉を寄せたが、冷たくあしらおうと思った心をいったん落ち着かせた。これは本人に直接尋ねる、もしくは相手の意図を探るためのいい機会ではないかと思い至る。しばし考えこんだのち「わかった」と短く告げた。
 利央は嬉しそうに顔を綻ばせると、準太の背中を押して早くと急かす。何をそんなにはしゃいでいるのか理解に苦しんだが、この年頃の子供は些細なことで一喜一憂する生き物だと結論づけた。
 車に乗りこむなり今にも鼻歌を歌いださんばかりの利央を一瞥すると、準太はキーを差し込んでエンジンをかけた。
「それで? お前の家はどこ」
   シートの位置を調節していた利央が満面の笑みを浮かべて住所を告げる。何がそんなに嬉しいのか、準太は内心で悪態をつく。
「やっぱ言ってみるもんっすねぇ。マジで送ってもらえるとは思わなかった」
「だったら今から降りてもいいけどな」
「やです」
 無邪気な笑顔に思わず押されてしまう。準太は小さく舌打ちしてからアクセルを踏んだ。
「それにしてもこんな時間まで何してたんだ、お前」
 車内のデジタル時計をちらりと見る。午後十時をとうに過ぎていた。そう言った本人もつい仕事に没頭していたのだが。
 どうすればもっと生徒の興味を惹くような授業をできるのか考えこんでいるうちにすっかり遅くなっていた。
 利央は髪を指先でいじりながら言葉を濁す。
「まぁ、いろいろと」
 咎めるつもりも追及するつもりもなかったので、適当に相槌をうってブレーキに足をかけた。信号が赤になる。
「そういやお前野球部だっけ」
 それを知っていたのは、利央の担任である河合に聞いたからだった。河合も高校時代にキャッチャーだったからか、利央のことは特に気に入っているらしい。現在野球部の顧問である河合の話題に利央の話がのぼることも多い。将来うちの野球部を引っ張っていってくれるはずだ、と何度も聞かされた。
「キャッチャーです。先生は昔ピッチャーでしたっけ」
「あぁ」
 前を向いたまま返事をする。そろそろ信号が青に変わりそうだ。
「先生のボール受けてみたいっす」
 その言葉に準太は苦笑する。野球をやめてもう何年も経っており、いまさらボールを投げる気にもならない。日々に忙殺され、硬球に触れてすらいないのだ。
「……頑張れよ」
 不意にいつかの夏大会の光景が浮かんだ。甲子園を目指した戦いで敗れたあの日、河合やチームメート達と悔し涙を流した。あの日のことは時々夢に見るくらい鮮明に覚えている。
 軽く唇を噛んでいると隣りから「どうしたんすか」と気遣わしげな声がかけられた。聞こえないふりをする。
「あ、次の角を左です」
 もうすぐ到着のようだ。準太はふと肝心なことが何ひとつ聞けていないのに気がつく。野球の話などしている場合ではない。
 胸に引っかかって仕方がない違和感を払拭するために利央を送っているというのに、これでは本末転倒だ。ちらりと横目で見ると、利央は準太をにこやかな表情で見つめていた。その顔はいつも授業中に見せるものと同じだ。聞くなら今しかないと思い、意を決して準太は口を開いた。
「お前さ、なに見てんだよ」
 妙に緊張してしまったせいか、喧嘩腰の問いかけになってしまう。その上彼の聞きたい答えとは程遠いところにあるであろう質問を投げつけてしまった。
利央は目を細めてふっと息を吐く。
「やっと聞いてくれましたね」
「は?」
 答えは完全に準太の予想の範疇を超えていた。目を瞬かせて続きを待つしかない。
「ここでいいです」
 利央は車通りのない路上で突然そう告げた。
 公園の側に停車するなり、準太はたまらず続きを促す。このまま帰られてしまっては意味がない。
「どういう意味だ?」
 人気のない通りを寂しく外灯が照らしている。その灯りを頼りに隣りの様子を窺ったが、利央は微笑むばかりでなかなか続きを言おうとしない。
 じれったくて落ち着かず、準太はネクタイを少し緩めた。生徒に少しでもなめられないようにと毎日スーツで出勤しているが、正直なところネクタイは少々窮屈で苦手だ。
「こういうことです」
 これが答えだ、と言わんばかりの不遜な口元に引き寄せられる。利央はネクタイを引っつかむと、力任せに自分へ引き寄せ、準太の唇に自分の唇を押し当てた。わけがわからず目を見開いているうちに利央は離れていく。薄明かりに照らされた少年の顔に、いつも見ていた幼さは微塵もなかった。
「それじゃあ、失礼します」
 深々と頭を下げて利央が車から降りてしまう。準太はひと言も発することができずに呆然と背中を見送った。その背中が見えなくなった頃、ようやく呼吸ができるようになる。
「いや……は? 待て……。なんで?」
 これまで準太の中での仲沢利央像は、ぼんやりしている穏やかな少年、だった。だが今見た姿はそれとは真逆で、無邪気な笑顔で人を欺くとんでもないクソガキである。
 これは夢だ、そう思おうとして唇に触れたが、なおさら近づいた顔がちらついた。
「……っ」
 言葉にならないうめきが漏れる。
 己の不覚さを呪いながら、準太は再び車を発進させた。
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