光の部屋


 これから暑さも本番、甲子園を目指した夏の大会初戦で彼らは惜しくも敗れた。相手は新設で部員は一年ばかりだったが、一歩及ばず。悔しさで眠れない日々が続いたが、皆の視線はやがてひとつ先の未来へと向かい始めた。
 利央は唇を噛みしめてミットを構えている。これまで幾度となくこの瞬間を待っていたはずの彼だが、表情はどこか浮かない。ミットに滑り込むボールは待ち望んだものとは程遠く、しとやかにそこに収まっている。
 違う、こんなの。
 利央はそれをどう言葉にすればいいのかわからずにいた。
 噛みつくような、自分を拒絶するように暴れるものが欲しい。
「準さーん」
 両手を広げて抱きしめようとすると、プロテクター越しに腹を蹴飛ばされる。
「なにやってんだ、お前」
「こういうのなんだけどなぁ」
「は?」
 荒っぽさが指先にまで伝わっていないのかもしれない、そう思い今度は準太の手に触れる。あからさまに歪んだ表情を認めると、利央は小さく頷いてから再び元の位置に戻った。
 やはりまだあの日から抜け出していないのだろうか。
 目を閉じると顔中を濡らした準太の泣き顔が浮かんでくる。いくら受け取ってもそれは違う誰かが投げたもののように感じられる。首をかしげてボールを返すと、受け取った準太がくるりと背中を向けてしまった。
「え?」
 その足はどんどん利央から離れていく。
 慌ててミットを脇に挟んで駆け出した。待てと言ったところで立ち止まるような性格ではない。ひっつかまえて紐でしばるくらいでなければ、彼は意気込んだ。
 追ってくるとわかっているのか、準太は速度を上げて逃げ去っていく。
「逃げた」
 逃げられるととことん追いかけたくなる。
 すっかり罠にはまった気分の利央だった。

 誰もいない部室の片隅に準太は座っていた。
 窓から差し込む光のせいで俯いた顔の半分がかげっている。一瞬泣いているのかと思い、近づくのをためらった。なんと声をかけるべきか、いくら頭を働かせようとしてもうまくいかない。そんな彼に低い声がかかる。
「何?」
「何って。準さんこそこんなとこでサボって何やってんすか」
 語調が強くなる。
 責めるつもりで追いかけてきたわけではなかったが、翳った横顔が気になって仕方がない。頬をゆっくりと削り取るような光を睨みつけてみる。しかしそれは徐々に準太の体を覆っていく。
 利央はたまらず側に歩み寄り、光をさえぎるようにそっと手を伸ばした。だが指先はどこにも触れずに宙をさまよっている。準太の顔がそろそろと上がり、利央を見上げた。
「お前だってわかってんだろ」
 利央は意味をわかりかねて首を傾げる。いつも意地の悪い笑みを浮かべているエースの口元は自嘲気味に歪んでいた。
「違うって顔、してた」
「あ……」
 球を受けた瞬間の自分を思い出して利央の顔は真っ赤になる。自分が微妙な変化を読み取っていたのだ、たとえ離れた位置にいようと準太が彼のそれに気がついてもおかしくない。いまさらそんなことに気づいて苦い気分になった。
 宙をさまよっていた手はためらいがちに引き戻される。しばらく沈黙が訪れた。
 弁解するために来たわけではない。けれど他に言葉が思いつかない。
 胸元で手を握りしめ、窓の外を何気なく見やる。光はいつの間にか雲にさえぎられ、準太を飲み込もうとしていたそれも消えていた。
 あの日は雨が降っていた。試合中に降りだした雨に濡れた頬。ベンチからただひたすら祈りを捧げた。マウンドでひとりきりの孤高の人に何度も何度も。利央は唇をかみしめ、ひとつ頷いてから一歩前に出た。準太は俯いていた顔を再び上げる。
「そんな顔してると、和さんに言いますよ。準さんがサボってばっかで困りますって」
 準太の表情が微妙に変化する。勢いづいた利央はなおも続けた。
「言っときますけど。オレは和さんみたいに優しくないですからね」
「まあ、そうだな」
 あっさり肯定されてむっとしたが、まだ本当に言いたいことへはたどりついていない。利央は苦笑しながら胸元で握りしめていた手を今度はためらいなく伸ばした。それは準太の髪にそっと触れる。
「でも。準さんすっげー頑張りましたよ。オレはちゃんと知ってる」
 髪に差し入れた指は乱暴に頭を撫でた。強い思いを込めて何度も繰り返す。
「頑張った」
 思いがせりあがってきて利央の目尻に涙が滲んだ。それを必死に押しとどめる。
「だから」
 準太は唖然としたまま言葉を待っている。しかし、だからの後が続かない。伝えたい言葉はいくらでもあったが、何ひとつ零れてはこなかった。
 いっぱいにまで押しあがった感情が喉元で暴れている。とうとう堪えきれずに嗚咽が漏れた。悔しさをかみしめながら準太の頭を必死で抱える。だから今度は二人で絶対勝ちましょうね、言葉はすべて胸の奥へ下りていく。
「なーに泣いてんだ、アホ利央」
 あきれはてた様子で準太がようやく口を開いた。膝をついて泣きじゃくる利央の背中に腕を回し、なだめるように何度も優しく叩く。
「お前、何しに来たんだよ」
 雲に隠れていた光が再び室内に漏れ入る。
 それはどんな雨も乾かしてしまうほどの強い光だった。
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