約束
クリスマスという日は、特別ではないのに特別な気分になってしまう。
叶は久しぶりに会おうと約束したメールを何度も読み返して笑みを浮かべていた。
その日の練習は午前中までになっており、部室で着替えている部員たちもこれからの予定を興奮気味に語っている。
「何をにやにやしとるんや」
背後から突然声をかけられ慌てて電話を閉じる。怪しい仕草に織田は訝しげな表情を浮かべた。
「何でもねーよ」
勝手に緩む口元を何とか強引に引き締めると、急いで帰り支度を済ませて部室から飛び出した。
いったん家に帰って着替えていると、部屋の外から母親が自分を呼ぶ声が聞こえた。
この忙しいときに何事かと舌打ちすると、三橋の母親から電話があったと伝えられる。内容は、熱を出したので出かけられそうにない、というものだった。
弾んでいた心は一気にしぼむ。
自室に引き上げてため息と一緒にベッドへ倒れこんだ。
この日をずっと前から楽しみにしていた。
普段遠く離れているためほとんど会えず、こうして何か理由がなければお互いに遠慮しあって口にも出せない。地図で見ればこんなに近いのに、幼い彼らにとっては思うよりずっと遠かった。
久しぶりに母親と一緒に帰ってくるということを聞いた瞬間、叶は思わず声高に叫んだ。
「じゃあクリスマスどっか行こうか」
三橋は電話の向こうで恥ずかしそうに「うん」と答えた。どんな顔をしているか容易に想像できた。
多くを望んでいるわけじゃない。ただ隣りにいるだけで叶の心は癒された。
幼い頃の屈託ない笑顔をもう二度と見られないかもしれない、一時はあきらめたこともあったが、再びそれを見ることができて本当に幸せだったのだ。
叶は枕元にいつも置いているゴムボールを手に取る。それは三橋との思い出のものだった。初めて二人でキャッチボールをしたとき、彼が叶にあげたものである。
また遊びにきたらこれでキャッチボールしようね、そう言って三橋ははにかみながらボールを差し出した。あれから随分時間が経ってすっかり色褪せてしまったが、目を閉じれば記憶は鮮明に映しだされる。
手に取ったゴムボールをかざし、寂しさを紛らわせようと高く放った。回転しながら天井すれすれまで上ったそれは、差し出した手のひらに迷わず収まった。人差し指と中指の間にボールを挟み、もう一度放り投げる。今度は手のひらにぶつかって床へ逃げた。ボールが跳ねる音が静かな部屋に響く。
無性に寂しくなって寝返りを打つと、側にあった携帯電話を何気なくつかんだ。体調を気遣うメールを送ろうかと文字を打ったが、送信ボタンを押していいのか躊躇してしまう。三橋のことだ、気を遣って返信してくるに違いない。そう思うとなかなか送信できずにいた。
しばらくどうしようかと悩んだのち、風邪早く治せよと短い一文を送信する。本当ならばさっさと飛んで行って側についていてやりたい。少しでも優しくしてやりたかった。自分の中にあるありったけの優しさを全部注いでやりたい。
もどかしさが胸の奥で暴れている。どうにもならない距離がじれったくて、ただ過ぎていく時間をぼんやり過ごした。
夜になると冷え込みはますます厳しくなる。
結局自宅で食事を済ませ、何をするわけでもなくベッドに横になってぼんやりしていた。何度か織田からクリスマスパーティーに来ないかという誘いのメールが届いたが、返信しないままでいる。一年生の部員だけで楽しく騒ごうという気楽なものだったが、残念ながら今はそういう気分ではない。
手持ち無沙汰にまたボールを放って遊んでいると、けたたましい足音が近づいてきた。今度は何かと身構えると、ノックもなしに乱暴に扉が開かれる。眉間に皺を寄せ視線で問いかけると、母親は興奮気味に捲くし立てた。
「廉くんが来てるわよ」
「は?」
わけがわからず訝しげな顔をしていると、開けた扉の向こうから三橋の母親の声が聞こえた。慌ててベッドから飛び起きると、扉の前に立っている母親を押しのけて居間へ向かった。
「夜分遅くに押しかけちゃってすいません。廉がどうしても修ちゃんの家に行く≠チてきかなくて」
湯飲みを両手で包み、恐縮した面持ちで三橋の母親が頭を下げていた。父親が豪快に笑いながら「いいですよ」と答えている。
母親の隣りに縮こまって座っていた三橋は、近づいてきた足音に俯いていた顔を上げた。叶の姿を見つけた彼の顔が安堵の表情を浮かべる。三橋の額には熱を冷ますためのシートが貼られており、どこか息苦しそうに顔を歪めていた。
「修ちゃん」
呆然と立ちつくしていた叶の元へ三橋が駆け寄ってきた。咳き込む幼なじみの背中を優しくさすると「ありがとう」とか細い声が聞こえる。熱で真っ赤になった頬にそっと手の甲を当てると、驚くほど熱かった。
「お前こんな体で何してんだよ。うち帰って寝てろ」
本人は気遣っているつもりだが、どうしても乱暴な口調になってしまう。
「ごめん、なさい」
苦しそうに息をしながら上着のポケットに手を入れた三橋は、中から何かを取り出してかざしてみせた。大願成就と書かれた小さなお守りが揺れている。
「これ」
どうやら三橋はどうしてもこれを渡したかったらしい。
クリスマスプレゼントと呼ぶには微妙なものだったが、よく考えてみれば自分が何も用意していないのに気づいて叶は青ざめた。何かいいものはないか、考えてみたがまったく思いつかない。
しばし唸ったのち、ふと何かを思いついたらしく顔を綻ばせた。
「あ、そうだ。ちょっと来いよ」
言われるまま後ろをついてくる三橋の表情はどこか浮かない。部屋の前でうなだれたまま動こうとしない彼を強引に押し込むと、顎をしゃくってベッドに座るよう促した。
「具合、悪いのか?」
浮かない表情は熱のせいだという考えに至り、叶は気遣わしげに覗き込んで様子を窺った。三橋は首をゆっくり横に振る。彼は俯いたまま額のシートを剥がした。
「どうした?」
極力優しい声音を心がけ、しゃがんで目を合わせようと試みる。しかし三橋は青ざめた顔をして唇を震わせるばかりだった。
「言わなきゃわかんないから。怒んないから言ってみろよ」
「絶対、怒ん、ない?」
途切れ途切れに吐き出された言葉に何度も頷く。熱で汗ばんだ三橋の手をしっかり握って視線をそらさずにいた。
三橋はおどおどしながらもおもむろに口を開く。
「お守り、喜んで、ない」
「え? そんなことねーよ。そっか、さっきお礼言わなかったもんな。ごめんな、ありがとう」
ありがとう、という言葉でようやく三橋の顔に笑顔が戻った。その顔を見るとどうしようもないくらい嬉しくなって、人差し指に引っ掛けたお守りを三橋の顔の側で揺らしてみせる。
「ありがとう、廉」
立ち上がって三橋の頭をそっと抱く。癖毛を優しく撫でると、安心したのか額を預けてきた。
額の触れている胸が熱くなる。唐突に込み上げてきた羞恥心に負けて、叶は包んでいる腕を解いた。
「オレからのプレゼントは」
叶は布団を探ってゴムボールを取り出す。
「覚えてる?」
三橋の表情が驚きに変わる。
それはいつか彼が叶に渡したものだった。忘れるはずなどない。
大きく何度も頷き、恐る恐るそれに手を伸ばした。ゴムボールは懐かしい記憶と一緒に三橋の手のひらに戻ってくる。
「またキャッチボールしような」
「うん!」
近くにいても遠くにいても、約束が二人を繋いでくれる。