名もなき花 #5


 相変わらず、と呼べる日々が一番幸福かもしれない。
 休日をどのように過ごそうかと悩んでいる相棒の姿を眺めながら、準太は呑気に舌で飴玉を転がしている。
 十二月二十五日、どうせ浮ついて練習に身が入らないだろうという監督の計らいで午後の練習は休みになった。
 ようやく冬休みを迎え、苦手な勉強から解放された利央はすっかりご機嫌である。
「そういうの興味ないから」
 にべもなく一蹴され、利央は涙目でうなだれる。
「準さんの嘘つき」
「何が」
「自分が仕掛けたことには責任持たないといけないんでしたよね」
 余計なことばかり覚えていやがる、準太は胸の中でひとりごちて舌打ちした。


 利央に半ば強引に自宅へ連れて行かれた。
 人の気配のしない家に足を踏み入れると、利央はしっかり準太の腕を引いて自室の扉を開ける。見かけによらない大胆な行動に苦笑いを浮かべる準太だった。利央はベッドに準太を座らせると「逃げないでくださいよ」と言い置いて部屋を出て行く。
 ベッドの上にはだらしなく脱ぎ捨てられた部屋着があった。たった今利央がはずして放り投げたネクタイも転がっている。無性に気になるのでたたんで枕元に置いておく。床のあちこちに散乱している雑誌をつま先で蹴飛ばした。
 くたびれて眠るだけだとはっきり見て取れる部屋に利央らしさが窺える。机の上だけやけに綺麗なところをみると、勉強はほとんどしていないのだろう。
 準太はベッドに横になってぼんやり天井を眺めた。妙に気持ちが穏やかなのに気づく。認めるまでは散々逃げ回っていたはずの相手。今は一番近くにいる。
 それはすぐに当たり前になった。当たり前じゃなくなったら寂しくなるものだという河合の言葉が不意によぎる。
 利央の思いは何の迷いもなく常に自分だけに向けられるものだと、彼は自惚れていた。骨張ったその手が当たり前を崩した瞬間、どうしようもなくなって途方に暮れた。胸に急に湧いてきた理解不能な感情が暴れ回り、やがて胸を突き破った。確信はなんの意味も持たないのだと知らされた。
 最初芽吹いた花に名前はなかった。本人ですら気づかぬうちに勝手に育つわがままなそれは、いつしか準太の胸に小さな花を咲かせ、利央が名前をつけた。
 不本意だと文句を言うわりに準太の口元は笑みを形作っている。愛だ恋だと忙しい感情ではなく、当たり前を静かに積み上げていく。名前をもらった鮮やかな色をした花はそよ風に揺れていた。それはとても穏やかな表情をしている。
「準さん、寝てんの?」
 様子を窺う小声に閉じていた目を開いた。
「なーんだ。起きてるんだ」
「なんでそんなに残念そうなんだよ」
「え? 別に」
 あきらかに何かを企んでいる緩んだ口元が目に入る。
 机に持ってきたトレイを置くと、利央は緩んだ表情のままベッドの縁に腰掛けた。視線でその動作を追いかけると、はにかんだ笑みを浮かべて利央がもじもじしている。
「何?」
「準さん」
 どさくさに紛れてスキンシップをはかろうとしたが、準太の膝に阻まれてあえなく撃沈する。予想通りだったのか、迎撃に成功した彼はほっとした様子で息を吐いた。
 起き上がった準太は首の後ろに手を当てて大きく唸る。
「お前には前触れとかないのか」
「じゃ、じゃあ。ぎゅってしてもいいっすか」
「……いいわけねぇだろ」
「ケチ」
「だいたいお前はな」
 眉間に皺を寄せて説教を始めた準太に業を煮やし、ふてくされた顔で彼のネクタイに手をかける。何をやっても怒られるのだ、だったら好きにやった方がましである。強く引き寄せると、無防備だった体はあっけなく傾いた。
 利央は素早く唇をかすめるとにっと歯を見せて笑った。
「は?」
 わけがわからず準太が奇声を上げる。真っ赤になった顔がおかしくて利央は笑いを噛み殺した。
「準さん、顔真っ赤」
 かわいい、とからかわれますます顔が赤くなる。主導権を握られるのは主義に反するらしく、準太は怒り心頭の表情だった。
「準さんの負けですよ」
「お前むかつく」
「はいはい。知ってますよ」
 どこまでも負けを認めたがらない天邪鬼は、唇を噛みしめて心底悔しそうに利央を睨みつけている。いくら冷たい言葉を投げつけても、真っ赤な顔では何の効力もなかった。
「それでも準さんはオレが好きなんですよね」
 どこまでも食い込んでくる言葉にだんだん体の力が抜けていく。準太はあきれまじりのため息をついて苦笑いを浮かべた。
「そうだよ。文句あるか」
 半ば投げやりに吐き出すと大の字になり、準太は顔をそむけてしまう。その様子にすっかり心を握りしめられ、利央は眩しそうに目を細めた。
「ないです」
 感極まって抱きしめようとしたが、またしても天邪鬼な膝に阻まれる。
「学習しろ、アホ」
 涙目で隣りに倒れこむと、得意げな顔が視界いっぱいに映った。準太は勝ったと言わんばかりの表情を見せる。抗議の声を上げようとした唇は勝ち誇った指先につままれた。必死で反撃しようとする姿が面白かったらしく、唇をつまんだまま準太が肩を震わせる。
「変な顔」
 平凡で相変わらずな日常の隙間に少しの甘い時間が隠れている。それを引っ張り出すたび胸は幸せでいっぱいになった。
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