十八番はコブクロの「桜」である。しみじみと聞かせるバラードにグラスを傾ける西広。歌が終わると小さく拍手した。巣山の意外な歌声にひたすら感心している。 「うまいな、巣山」 「そ、そう?」 「聞き入っちゃったよ」 照れくさそうに頭を掻く巣山の枡に酒を注いでやる。傍から見れば仕事帰りのサラリーマンのようだった。年の割りに落ち着いた雰囲気を醸し出しているせいだろう。 「ありがとう。そうだ、もうオレらしか起きてないし、もう一回乾杯しない?」 「何に?」 「西広先生に」 「じゃあ巣山のコブクロに」 ほろ酔い気分の二人のやり取りは普段では考えられなかったが、突っ込む者はもういない。花井あたりが起きていれば大袈裟に騒いでいたかもしれないが。 これまで騒がしかった室内にはいつしか静寂が訪れ、緩やかに空気が流れ始めた。 彼らの背中を月明かりが柔らかく照らす。傾けたグラスに反射してきらきら光るそれを見つめ、西広はふっと笑みを零した。 「どうかした?」 「ん? ちょっと感動だなーって思って」 感慨深そうに呟く。 西広は春からこれまでのことを振り返っていた。思えば野球初心者で、それでも野球が好きで、初めてフライを捕った夜は興奮して眠れなかった。手のひらに感じた微かな痛み。それは思い返すたびに胸をじんと疼かせた。 これまで感じたどの感動よりも確かなものが手の中にある。テレビでしか見たことのない甲子園。ただ思い描くだけだった夢がいつしか掴み取るものへと変わった。 「オレ、野球やってよかった」 三橋を抱きしめてすやすや眠る田島にふと視線を送った。小柄な二人の体に秘められた大きな力がいつでも彼に勇気をくれる。 野球やってよかった、何気ない言葉だが胸を熱くさせる。巣山は枡の酒をひと口飲んでしみじみとチームメートの顔を見た。 「これからずっとそう思えるといいな」 語り合うのはどこかくすぐったいが、言葉が相手に伝わったとき喜びで胸が震える。 みんなを起こしてしまわないよう、二人はひっそり微笑み合った。 夜が更けてきて、次第に眠気が襲ってきた。 巣山はまぶたをこすりながら濃い紫色をした窓の外を眺めた。仰ぎ見た空にはまばらに星が瞬いている。それが滲み出し、いよいよ限界だと感じた。 まだ一升瓶には酒が残っている。せっかくだから全部いただこうと思っていたが、かなわないようだ。あくびをかみ殺す彼に穏やかな声がかかる。 「眠かったら寝てもいいよ」 「西広は?」 「オレは月見酒楽しむから」 「悪い」 「おやすみー」 西広の顔はまったく変わらず、依然として涼しいままである。小さく手を振る姿がぼやけだし、巣山は沈む体に逆らわずにゆっくりと横になった。 「お前、強ぇな」 目を閉じながら呟いた声はかすれていた。 ひとりになった西広は空になったグラスに酒を注ぐ。 コップ片手に見上げた月は満月に近いふっくらとしたものだった。降り注ぐそれは明るく、彼は立ち上がって電気を消しに向かう。肌寒い季節なので、チームメートの肩に上着をかけるのも忘れない。 月明かりでも十分明るい室内。窓を風が控えめに叩いている。きっと外の風は冷たいのだろう。 これから寒い季節を越え、やがてやってくる暑い季節を夢見る。その頃にはまた新しい何かがあるのかもしれない、そう思うと心が弾んだ。 まだ見ぬ未来に膨らむ夢は、いつでも眩しすぎて見えないくらい光り輝いている。 三橋が落としたのだろうか、突然ベッドから白球が転がってきた。それは迷うことなく西広の元へやってきて、膝に当たって止まる。 彼はそれを拾い上げ、月明かりにかざした。 |